ケント (戦列艦・初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/24 13:10 UTC 版)
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艦歴 | |
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建造: | ジョンソン造船所(ブラックウォール) |
進水: | 1679年 |
その後: | 1744年解体 |
性能諸元[1] | |
クラス: | 3等戦列艦 |
全長: | 砲列甲板:151ft 5in (46.2m) |
全幅: | 40ft 2in (12.2m) |
喫水: | 16ft 9.5in (5.1m) |
機関: | 帆走(3本マストシップ) |
兵装: | 各種口径の砲70門 |
性能諸元(1699年再建造)[2] | |
クラス: | 3等戦列艦 |
全長: | 砲列甲板:151ft 6in (46.2m) |
全幅: | 40ft 3in (12.3m) |
喫水: | 16ft 7in (5.1m) |
機関: | 帆走(3本マストシップ) |
兵装: | 各種口径の砲70門 |
性能諸元(1724年再建造)[3] | |
クラス: | 1719年規定の3等戦列艦 |
全長: | 砲列甲板:151ft (46.0m) |
全幅: | 41ft 6in (12.6m) |
喫水: | 17ft 4in (5.3m) |
機関: | 帆走(3本マストシップ) |
兵装: | 70門: 上砲列:12ポンド(5kg)砲26門 |
ケント (HMS Kent) はイギリス海軍の70門3等戦列艦。ブラックウォールで1679年に進水した。この名をもつイギリス軍艦としては2代目である。
ケントの輝かしい経歴は英蘭戦争のバルフルール岬の海戦から始まった。ケントはフランス、スペイン、そして地中海での活動に対して4つの戦闘勲章を受けたが、これは歴代の「ケント」の中で最多である。1702年のビーゴ湾の海戦ではフランス・スペイン艦隊各17隻を一掃する決定的勝利に貢献し、1707年のジブラルタル防衛のために発生したマラガの海戦にも参加した。1718年にはジョージ・ビング提督のシチリア防衛艦隊の一員であった。ケントの最後の戦闘は1744年のキューバ砲撃である[4] 。
ケントの最初の再建造はロザーハイスで1699年に行われた。1722年2月16日には再々建造が発注され、完全に解体された後1719年の寸法規定に従って組みなおされた。再進水日は1724年9月19日である。2度の再建造を経た後もケントは70門艦であった[2]。
参加海戦
脚注
- ^ Lavery, Ships of the Line vol.1, p162.
- ^ a b Lavery, Ships of the Line vol.1, p166.
- ^ a b Lavery, Ships of the Line vol.1, p169.
- ^ “History of HMS Kent”. 2008年8月4日閲覧。
参考文献
- Lavery, Brian (2003) The Ship of the Line - Volume 1: The development of the battlefleet 1650-1850. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-252-8.
関連項目
「ケント (戦列艦・初代)」の例文・使い方・用例・文例
- ケントも子どもたちも動物園に行きたがっていない
- ケント州の村
- この前ケントに会ったとき、彼はとても元気でした。
- ケントは生まれながらの指導者です。
- ケント州に長く根を下ろした旧家.
- 彼はケント大学に日本文学の客員教授として招聘された.
- 南西イギリスのケントの町
- 聖アウグスチンによってキリスト教へ改宗したケントのアングロサクソン王
- ウェセックスとケントの王でありアルフレッドの兄
- 米国オハイオ州のケント州立大学の研究者が,腕や脚などのアファール猿人の化石を詳細に調査し,男性と女性は体格では大きくは異ならないことをつきとめたのだ。
- チャーリー・ケントン(ヒュー・ジャックマン)はかつては才能あるプロボクサーだった。
- 9月11日,吉田沙(さ)保(お)里(り)選手がウズベキスタンのタシケントで行われたレスリング世界選手権で12連覇を果たした。
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