ケファロニア宮廷伯オルシーニ家とは? わかりやすく解説

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ケファロニア宮廷伯オルシーニ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/13 00:40 UTC 版)

ニコーラ・オルシーニ」の記事における「ケファロニア宮廷伯オルシーニ家」の解説

オルシーニ家は元々イタリア名門貴族で、中世ローマ政界主導した家門一つである。彼らが中世ギリシア東ローマ帝国世界関わりを持つようになったのは、第4回十字軍直前の事である。一族のマイオ・オルシーニ(Maio Orsini)は自ら冒険者的な一団率いてアドリア海出航し当時東ローマ帝国であったケファロニア島イタカ島、ザキンソス島などを占拠して自らの領土とした。彼は間もなく第4回十字軍主導したヴェネツィア共和国臣下として、ケファロニア宮廷伯領と呼ばれる事になるその占領地保有認められている(1208年)。マイオは支配者称号として宮廷伯(comes Palatinus)の称号採用したが、いつ、どのような形でそれを保有する至ったのかは明確ではない。 マイオ・オルシーニはギリシア地域への定着を果たすと同時にイピロス専制公国との繋がりも得る事となった。彼はその地で専制公セオドロス・ドゥカス・コムニノス・アンゲロスの姉アンナを妻に迎えた。したがって、この時点で、オルシーニ一族潜在的なイピロス専制公国相続人となったのである。その絆はマイオの孫ジョヴァンニ1世1317年没)の時に更に強められた。ジョヴァンニ専制公ニキフォロス1世ドゥカスの娘マリア結婚し息子ニコーラ(ニコロ)、ジョヴァンニ2世、グィード、娘マルゲリータもうけたマルゲリータ当時ヴェネツィアコルフ島行政官であったグリエルモ・トッコと結婚し、のちにトッコ家がケファロニア宮廷伯領とイピロス専制公国相続する下地作った

※この「ケファロニア宮廷伯オルシーニ家」の解説は、「ニコーラ・オルシーニ」の解説の一部です。
「ケファロニア宮廷伯オルシーニ家」を含む「ニコーラ・オルシーニ」の記事については、「ニコーラ・オルシーニ」の概要を参照ください。

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