グループ展の挫折と再構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:12 UTC 版)
「第1回印象派展」の記事における「グループ展の挫折と再構想」の解説
1867年のサロンにおいて落選した画家たちは、ニューウェルケルク伯爵が落選者展を開催しないという措置に対して、抗議したが受け入れられなかった。バティニョール派(マネ派)の画家たちは、行政の方針によって左右されるサロンの審査方法に疑問を抱いていた。そこで同派の画家たちに、クロード・モネを筆頭としたグループ展の開催の構想が浮かぶ。そこで、ギュスターヴ・クールベのパリ万国博覧会のパビリオンを利用してグループ展を開こうと計画したが、経済上の理由で開催には至らなかった。再度の落選者展を求めるアーティストたちの請願は、1867年につづき1872年にも拒否された。 1870年から71年にかけては、普仏戦争が起こり、プロイセン軍がフランスに侵入して、パリも危うくなった。マネは兵役につき、モネとシスレーはロンドンに避難し、セザンヌはプロヴァンスに、ピサロはポントワーズにそれぞれ移った。バジールはこの戦争で戦死している。 初めてバティニョール派独自のグループ展が開催される頃には、各々の画家らは懇意にしてくれる蒐集家に恵まれ、以前よりも経済的な援助にもめぐまれるようになっていた。ところが、1873年にフランスが北米発の恐慌(1873年恐慌)に見舞われると、バティニョール派の支持者で作品の流通に尽力していた画商のポール・デュラン=リュエルが同派の画家たちへの支援を打ち切らなければならない事態となった。バティニョール派の仲間たちは、サロンよりも安定した作品の発表方法を求め、再びグループによる展覧会の開催を計画した。
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