クロディウス・プルケルとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:37 UTC 版)
「フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)」の記事における「クロディウス・プルケルとの結婚」の解説
紀元前62年ごろ、フルウィアはプブリウス・クロディウス・プルケルと最初の結婚をした。二人の間には、父と同名のプブリウス・クロディウス・プルケルという息子と、クロディア・プルクラという娘が生まれた。夫婦はどこへ行くにも一緒だった。 紀元前52年、クロディウスはプラエトルに立候補したが、執政官候補のティトゥス・アンニウス・ミロとの対立が激化し、暴力的な争いへとエスカレートした。1月18日、クロディウスは祖先が建設したアッピア街道でミロとその手下たちに殺害された。フルウィアの名が公の記録に現れるのは、この夫の死後である。彼女は公の場で夫の遺体に覆いかぶさって嘆き悲しみ、遺体を引いてローマの道々を練り歩くという行動に出た。クロディウスは民衆に人気があったため、怒った群衆が遺体を取り上げ、元老院で火葬させた。フルウィアは母センプロニアとともにミロの裁判に出席し、原告側で最後の証言を行った。ミロは有罪とされ、追放された。 クロディウスは生前に多くの手下を囲っていたが、彼らは主人の死後にはフルウィアに従うようになった。実際に、彼女がコレギウム(結社)を組織していたとする証拠もいくつか残っている。クロディウスの未亡人かつその子たちの母親として、フルウィアはクロディウスの遺志を継ぐ象徴となり、その影響力が後の夫たちにも受け継がれていくことになる。
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