ギーラーンでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 23:52 UTC 版)
「ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー」の記事における「ギーラーンでの活動」の解説
同月1日からバクーで開催されることになった東方諸民族大会においては、ヘイダルも代議員として選出された。そして、この大会でヘイダルが問題としたのは、イラン北部に建設されていた革命政権「ギーラーン共和国」についての混乱と、それをめぐるスルタンザーデらイラン共産党中央委の責任についてであった。ヘイダルとその支持者らは、スルタンザーデらに中央委からの辞任を要求し、後任に自分たちを選出するよう求めた。両派はまたも激しく対立したが、結局はヨシフ・スターリンの提起に従い、11月11日のボリシェヴィキ中央委カフカース局 (ru) 決議により、ヘイダルを書記とする新たなイラン共産党中央委が発足することとなった。 こうしてイラン共産党指導者となったヘイダルは、1921年1月26日に新たなテーゼを発表し、即時の共産革命路線を撤回し、プロレタリアートと中小ブルジョワジーの共闘路線を採用した。そして、ギーラーン革命において分裂状態にあった右派のミールザー・クーチェク・ハーン(ペルシア語版)の勢力と、左派のエフサーノッラー・ハーン・ドゥーストダール(ペルシア語版)の勢力との糾合に取りかかった。そして、5月には両者の対立を治め、ギーラーンの革命政権を再統一することに成功した。 しかしコミンテルン指導部は、ヘイダルではなくイラン共産党中央委を追われたスルタンザーデ側を支持し、ヘイダルを信任しなかった(コミンテルン宣伝部のミハイル・パヴロヴィチは、「ヘイダル・ハーンのグループには仮面を着けずに堂々と活動し、コムニストの夏シャツを身に着けないよう提案したい」とまで述べている)。コミンテルン執行部はヘイダルをモスクワへ召喚したが、ヘイダルはこの命令を拒否した。さらに、ヘイダルは2月に締結されたソビエト・イラン友好条約(ドイツ語版)を無視して、テヘラン中央政府と戦うための勢力を密かにギーラーンへと移送していた。 党中央を完全に無視するようになったヘイダルに対し、ソビエト・アゼルバイジャン指導部や党中央カフカース局からのヘイダルを擁護する声もなくなり、5月24日にはアゼルバイジャン共産党中央委が、ヘイダルからの党員証の剥奪を決議した。6月4日にはカフカース局がイラン共産党中央委の解散を決議したが、ヘイダルはこれも拒否し、逮捕命令を掻い潜って同月末にクーチェク・ハーンの元へ逃亡した。しかしその頃にはクーチェクすらも、一切の組織的後ろ盾を失ったヘイダルを見限っていた。9月29日にクーチェク派が起こしたクーデターによってヘイダルは逮捕され、10月15日にフーマン(ペルシア語版)近郊で殺害された。
※この「ギーラーンでの活動」の解説は、「ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー」の解説の一部です。
「ギーラーンでの活動」を含む「ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー」の記事については、「ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー」の概要を参照ください。
- ギーラーンでの活動のページへのリンク