ガリバルディ上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 14:03 UTC 版)
「フランチェスコ2世 (両シチリア王)」の記事における「ガリバルディ上陸」の解説
その頃、カラブリアとシチリア島では革命派の運動が激化しており、加えてサルデーニャではガリバルディが南部解放の戦争を遂行しようとしていた。フランチェスコ2世は事前に露見した幾つかの陰謀について首謀者を厳しく取り締まったが、勢いは停まらなかった。1860年5月にシチリア島にガリバルディ率いる千人隊が上陸すると、革命軍は彼を歓迎して軍に加わり、瞬く間にシチリア全土がガリバルディ軍の傘下に入った。フランチェスコ2世は義兄であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に救援を要請したが、1年前にソルフェリーノの戦いに負けたばかりのオーストリア帝国にそのような余裕はなかった。ここに至ってフランチェスコ2世は憲法の制定による立憲君主制への移行を決断したが、この段階でも王党派の政治家による強硬な反発に遭っている。 ともかく成立した両シチリアの立憲政府は、リボリオ・ロマーノを初代首相に選出した。だが改革の最中にもガリバルディ軍は猛烈な勢いで各地の反乱運動を取り込んで大勢力化していき、途中からはカヴールの命によってサルデーニャ軍部隊も援軍として加わっていった。しかしガリバルディは、立憲改革を進め始めた両シチリアを武力で倒すべきかどうか悩んで、しばし軍の進撃を停止した。その間にロマーノ首相の説得を受けたフランチェスコ2世は、王妃マリーア・ソフィアと共にガエータへ脱出、全軍をそこに結集して決戦に応じることにした。王が去ったとの報を聞いたガリバルディはナポリに入城すると、南部の共和派を集めて臨時共和政府を樹立した。
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