ガラタの城壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「ガラタの城壁」の解説
詳細は「ガラタ」を参照 金角湾をはさんでコンスタンティノープル市の対岸にあるスィカイ地区のガラタは、5世紀初頭以降コンスタンティノープルの防衛上欠かすことのできない重要拠点となった。425年頃のノティティア・ウルビス・コンスタンティノポリタナエには、ガラタがコンスタンティノープルの第13区として記録されている。ガラタはおそらく5世紀に城壁で囲われ、その後ユスティニアヌス1世の時代に都市の資格を与えられた。しかし後にガラタの人口は減少し、7世紀以降に都市としての実態を失い、金角湾の防鎖をつなぐ「大塔」 (kastellion tou Galatou 現カラキョイ)を残すのみとなった。1204年の包囲戦でラテン帝国が成立すると、ガラタはヴェネツィア人地区となった。しかしビザンツ帝国がコンスタンティノープルを取り戻すと、ジェノヴァの治外法権植民地となり、ビザンツ帝国の支配をほとんど受けない通商基地となった。ジェノヴァはビザンツ帝国の制止を押し切って、この地区を堀と城壁と塔で囲み、独自の防衛体制を固めた。ガラタの塔、後にキリストの塔(Christea Turris)と呼ばれるものと、地区の北へ延びる城壁は、1349年に建設された。さらにこの防備は1387年、1397年、1404年に拡張され、本来ジェノヴァ人に与えられていた領域を越えて、現在のアザプカプ地区からシシャネまで、またそこからトプハーネを経てカラキョイにまで伸びた。オスマン帝国に征服された後もガラタの城壁は維持されたが、1870年代に都市の拡大のために取り壊された。現在では、かつてのコンスタンティノープル領域のほとんどから見えるガラタの塔と、断片的な遺跡のみが残っている。
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