カンブラとギンギンドロブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:19 UTC 版)
「ズールー戦争」の記事における「カンブラとギンギンドロブ」の解説
セテワヨはナタール侵略までは意図しておらず、ズールー王国内でのみ戦っていた。チェルムスフォードは続く2ヶ月間を部隊の再編と新たな侵攻軍の構築に費やし、まずはエショーヴェで包囲されているピアソンの救出を図っていた。本国政府は2個砲兵中隊を伴った7個連隊の増援を大至急でナタールへ送り込んだ。3月7日、増援第一陣がダーバンに到着。 この期間の3月12日、リューンズブルクへ向かっていた補給隊がイントムベ川(英: Intombi River)で襲撃を受けて全滅し補給物資を奪われている(イントムベの戦い)。 チェルムスフォードはヨーロッパ兵3,400、アフリカ兵2,300から成る縦隊を率いてエショーヴェ救出へ向かった。今回の進軍では毎晩陣地を構築しつつ進んでいる。チェルムスフォードはウッドの部隊(スタフォードシャー連隊とボーア人から成る675人)にフロバネにあるズールーの砦を攻撃するよう命じた。3月28日、フロバネの戦い(英語版)では、レドバース・ブラー中佐がフロバネを攻撃したが、ズールー軍本隊2万6千が来援し英兵は撃退され、ズールー軍が勝利した。アフリカ人部隊を失った(殺されたのではなく逃亡した)他に400人のヨーロッパ兵の内、100人が死傷している。 翌日、2万5千のズールー戦士がカンブラのウッドの野営地(2,068人)に襲いかかった。英軍はカンブラの戦い(英語版)で持ちこたえ、5時間の激戦の末にズールーは撤退した。英軍の損失は26人、ズールー軍の損失はおよそ2,000人だった。これは決定的な戦いとなった。 ウッドが戦っている間、チェルムスフォードの縦隊はエショーヴェへ進軍を続けた。4月2日、縦隊はギンギンドロブの戦い(英語版)でズールーの攻撃を受けたが撃退した。ズールーの損害は大きく約1,200人を失っている。一方、英軍は2人が戦死し52人が負傷しただけだった。翌日、英軍はピアソンの部隊を救出し、4月5日にエショーヴェを退去した。その後、ズールーはこの地を焼き払っている。
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