カタンガ国の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 04:49 UTC 版)
1962年12月24日、エリザベートヴィル近郊でカタンガ憲兵隊とONUCの衝突が発生した。年が変わる前にONUCはエリザベートヴィルを制圧し、その直後に停戦合意が成立した。ところが、ONUCのインド人部隊は本部からの命令に背いてジャドヴィルを急襲した。ジャドヴィルの制圧後、ONUC兵士による残虐行為が発生した。この時に道路の検問所でベルギー人女性2人がインド人警備員からの発砲を受けて車中で殺害されるなど、民間人の死傷者も出てしまった。 カタンガ憲兵隊や主にフランス人や南アフリカ人で構成される残りの傭兵部隊は「焦土作戦」に従うように指示を受けていたが、これを無視してアンゴラに逃れた。1963年1月21日、モイーズ・チョンベは敗北を認め、最後の拠点としていたコルヴェジに国連職員が入ることに同意した。地雷を撤去し、全ての武装支持者に武器を放棄するように指示を出した。チョンベはカタンガ国指導者としての最後の声明の中で「ここ2年半の間、諸君は敵と二度、勇ましく戦ってきた。現在、彼らは圧倒的な優位性を築いている。・・・」と述べた。
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