カシン分領を巡る争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/28 04:16 UTC 版)
「イヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)」の記事における「カシン分領を巡る争い」の解説
1400年にはハン、シャディベクの承認を得て、弟であるカシン公ヴァシーリーから領土を奪うが、抗議を受けてこれを返還する。1401年には従兄弟でホルム分領公イヴァンと和解し、彼の遺言により、1402年にカシン分領を事実上領有する。1403年にはカシンの町からヴァシーリー公を追い出す。1404年には彼を捕らえ、枷に繋いだ。1405年にはヴァシーリー公と和解するがすぐに決裂する。 1406年にはモスクワ大公ヴァシーリー1世と共に、リトアニアのヴィータウタス大公の下に赴く。1407年には、ホルム公ユーリーと共にハン国で新ハン、ブラト・ハンにより裁かれるも釈放される。ハンの命令にも拘わらず、イヴァンはユーリーにカシンを譲渡せず。その後、カシン公ヴァシーリーと和解する。 その後、1408年にエディゲがモスクワを包囲した際には、援助する義務があるにも拘わらず、イヴァンはモスクワに援軍を送らなかった。同年、再度イヴァン公がカシン公の支援を受けた甥イヴァンと争ったとき、甥イヴァンはモスクワに逃亡する。その後またもやカシン公ヴァシーリーと和解。 1412年にはリトアニア大公国と同盟条約を締結し、再度ヴァシーリー公と対立する。イヴァンはハンの裁定に持ち込むことにする。1413年にはハン、ケリム・ベルクの許から帰還。再度リトアニアに接近し、1422年にはヴィータウタスに、対ドイツ騎士団で援軍を送る。モスクワとも接近するために、イヴァンは、息子をモスクワ貴族フセヴォロシスキーの娘と結婚させた。 1425年にトヴェリにおいてペストで死去。彼の死後、トヴェリ大公位は長男アレクサンドルが相続するが、彼もペストですぐに死去する。次いでアレクサンドルの長男ユーリーが大公位に就くが、彼も数日の後にペストで死去する。結局、アレクサンドルの次男ボリスがトヴェリ大公国を引き継ぐが、こうした早い世代交代がトヴェリ大公国の弱体化を招いたのかも知れない。
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