オランダ商館との関わり
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吉雄耕牛・大槻玄沢らは1795年正月にオランダ正月と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートした。 蘭癖の学者や武士は結託し、オランダ商館側とともに”自主的独立国家としてのオランダ”が存在しない事を日本国内で隠し続けた。滅亡していたはずのオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるなど、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの、オランダ国が存在しない20年ほどの期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した(詳しくは黒船来航を参照)。ただしこの間の1808年(文化5年)、フェートン号事件が起きている。 このような蘭癖の存続と拡大は、日本国内の諸藩および庶民階級に至るまでの技術・学術(蘭方医学など)・文化(洋風画、秋田蘭画、長崎派など)に各種の影響を与えた。政治面でもたとえばオランダ商館長と最も密接な関係にあった薩摩藩主島津重豪の政治的画策を助けた。オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍徳川家斉の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものであったとされる。
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