オットーの普遍史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
中世の時代に、最初に普遍史を再構築した人物がオットー・フォン・フライジング(1114年 - 1158年)だった。ドイツのフライジングに置かれた司教座聖堂で司教を務めるまでになった彼は、ハインリヒ5世の甥にしてフリードリヒ1世の叔父という、皇帝と非常に近い血筋であった。彼は、古代普遍史を基本的に引き継ぎながら、著作『年代記』にてアウグスティヌス以降の時代を説明した。 第四の世界帝国・ローマ帝国は既に滅んでいた。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は存続していたが、このローマの分裂を普遍史観で解明することにオットーは挑んだ。彼は、世界帝国の主権は一時的にギリシア人のビザンティン帝国が継承したものの800年にカール大帝が戴冠を受け「ローマ皇帝」となってからはフランク人がこれを引き継ぎ、さらに神聖ローマ帝国が後を受ける形で、「第四世界帝国」そのものは崩壊を迎えず現存していると主張した。このようにオットーは「ローマ帝国」を拡張させて普遍史を弁護した。
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