エース中心主義からの脱却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:52 UTC 版)
「木村公宣」の記事における「エース中心主義からの脱却」の解説
木村は地元開催の長野五輪を第1シードの中でも上位7名である「トップ7」で参戦を果たし、日本国内の期待がいやがうえにも高まった。男子回転競技の入場券はすぐに完売したことからも、国民の期待の高さが伺える。しかし、木村は国内開催の重圧に押しつぶされることとなった。 それまでスキーアルペン競技の日本チームは、エースに一極集中的に力を注ぎ込む強化スタイルだった。80年代後半のエースは岡部哲也だったが、彼が病気を起因した不調で第1シード転落以降、日本チームは木村と同年代の石岡拓也が切磋琢磨し、第2シードまで進出した。その後、木村が第1シードに上り詰めると当たり前のように木村中心のチーム体制がとられた。石岡以外にも平沢岳が第2シードに進出していたが、あくまでエース中心主義を改めることはなかった。結果、木村一人にすべての期待が重圧としてかかることとなり、惨敗に終わった。 長野五輪での予想外の惨敗以降、日本チームは、ただ一人のエースにのみチーム力を集中する方針を改めていくこととなる。ソルトレイクシティ五輪では、皆川賢太郎の力が抜けていた感があったが、その後、皆川が不調に陥り、入れ替わるように佐々木明が台頭する。これまでの日本チームであれば、佐々木にすべての力を注ぎ込み、皆川が省みられることはなかったが、皆川も併せてサポートし、その復活を支援し、ついにトリノ五輪では第1シード2名での参戦を果たすこととなった。また、若手選手養成にもチーム力を注いだことで、現役大学生である湯浅直樹を併せた「3本の矢」としてチームジャパンはトリノ五輪に参戦することが可能となり、コルティアダンペツォ大会以来50年ぶりのスキーアルペン競技での入賞(それも皆川、湯浅のダブル入賞)を果たした。長野五輪での木村の惨敗が大きく糧となったといえる。
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