エルフ_(バンド)とは? わかりやすく解説

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エルフ (バンド)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 08:44 UTC 版)

エルフ
左からスティーヴ・エドワーズ、 クレイグ・グルーバー、ゲイリー・ドリスコル、ロニー・ジェームス・ディオ、ミッキー・リー・ソウル(1974年)
基本情報
原語名 Elf
別名
  • The Electric Elves
  • The Elves
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州コートランド
ジャンル
活動期間 1967年 - 1975年
レーベル
共同作業者 レインボー
旧メンバー

エルフElf)は、アメリカ合衆国ハード・ロックバンドロニー・ジェイムス・ディオの出身バンドであり、リッチー・ブラックモアが結成したリッチー・ブラックモアズ・レインボーの母体になったことで知られる。

略歴

黎明期

1967年ニューヨーク州コートランドで結成。最初のバンド名はThe Electric Elvesだったが、The Elvesと省略され、最終的にElfになった。メンバーは、ロナルド・パダヴォナ[注釈 1]ボーカルベース)、ダグ・サーラー(キーボード)、ゲイリー・ドリスコールドラムス)、デヴィッド・フェィンスティン[注釈 2]ギター)、ニック・パンタス(ギター)の5人。

1970年にパンタスが交通事故で死亡したので、4人編成で活動を続けた。サーラーがグループを去り、ミッキー・リー・ソウルがバンドに加わった。

レコーディングとライヴ活動

1972年、当時第2期だったディープ・パープルイアン・ペイスロジャー・グローヴァーが彼等の演奏を観て気に入ったことがきっかけになり、パープル・レコード(Purple Records) から2人の共同プロデュースによるファースト・アルバム『エルフ』をリリースする[3]。この時のメンバーは以下の4名だった[注釈 3]

さらに彼等は第2期ディープ・パープルのアメリカ・ツアーのオープニング・アクトを務める。

1973年、ロナルド・パダヴォナ改めロニー・ジェイムス・ディオがボーカル専任となり、クレイグ・グルーバーがベーシストとして加入。またフェンスティンが脱退してスティーヴ・エドワーズが後任ギタリストとして加入。新しい顔ぶれで5人編成として同年10月に活動を再開した。1974年4月16日、パープル・レコードからグローヴァー[注釈 4]のプロデュースによりセカンド・アルバム『キャロライナ・カウンティ・ボール』を発表した。アメリカでは『L.A./59』と題された[4]

  • ロニー・ジェイムス・ディオ - ボーカル
  • スティーヴ・エドワーズ - ギター
  • クレイグ・グルーバー - ベース
  • ゲイリー・ドリスコール - ドラムス
  • ミッキー・リー・ソウル - キーボード

彼等は第3期ディープ・パープルのイギリス・ツアーのオープニング・アクトを務め[4]、さらにキャリアを積んで知名度を高めていった。

1974年暮れからサード・アルバムのレコーディングを開始。同郷のコートランド出身のパーカッショニストマーク・ナウシーフが参加した。1975年6月にMGMレコードから、グローヴァーのプロデュースによって『バーン・ザ・サン』を発表した[注釈 5][5]

  • ロニー・ジェイムス・ディオ - ボーカル
  • スティーヴ・エドワーズ - ギター
  • クレイグ・グルーバー - ベース
  • ゲイリー・ドリスコール - ドラムス
  • ミッキー・リー・ソウル - キーボード
  • マーク・ナウシーフ - パーカッション

消滅

第3期ディープ・パープルに在籍していたギタリストのリッチー・ブラックモアは、1974年7月に録音が開始されたアルバム『嵐の使者』の制作中に、第3期からメンバーになったデイヴィッド・カヴァデールグレン・ヒューズが前作『紫の炎』にも増して、ソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素を持ち込むことに不満を抱いた。そしてクォーターマス[注釈 6]が取り上げた「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)[6][注釈 7]という曲を録音することを提案したが、オリジナル曲に執着するメンバーに反対された[7]

ブラックモアは、ディープ・パープルのオープニング・アクトやグローヴァーのソロ・アルバム『バタフライ・ボール』(1974年)でのボーカル・ワークで気に入っていたディオを起用して「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」を録音して、ソロ・シングルとして発表することにした[8]。彼はディオと「16世紀のグリーンスリーヴス」(Sixteenth Century Greensleeves)を共作し、グルーバー、ソウル、ドリスコールを招聘して2曲を録音した[9][注釈 8]。彼は出来の良さに大変満足して、ソロ・シングルを発表するのではなく、ディオ達と新しいバンドを結成することにした。

彼は1975年2月20日から3月14日まで、ミュンヘンミュージックランド・スタジオにディープ・パープルのプロデューサーのマーティン・バーチを迎えて、ディオ、グルーバー、ソウル、ドリスコールと新バンドのデビュー・アルバムを制作した[10]。そして4月7日のパリ公演を最後にディープ・パープルを脱退した[注釈 9]

ディオ達の所属先はエルフのメンバーとして契約していたパープル・レコードからオイスター・レコードへと変わった。そして配給元のポリドール・レコードによるビッグ・マーケット取得のためにエルフは消滅した。1975年8月10日、オイスター・レコードよりリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)の名義で同名のアルバム(邦題『銀嶺の覇者』)[注釈 10]が発表された。

メンバーのその後

エルフの知名度は、実際に活動していた時期にはあまり高くなかった。消滅した途端に世界中のハード・ロック・ファンから、ディオの出身バンドで、レインボーの前身バンドの母体でもある、という理由で注目を浴びるというやや皮肉な境遇を辿った。

エルフ消滅後、ディオのメロイック・サインに代表されるように、元メンバーがニューヨーク界隈のヘヴィメタルシーンやスラッシュ・メタル・シーンに影響を与えたという功績は大きい。

  • ロニー・ジェイムス・ディオ
  • クレイグ・グルーバー
    『銀嶺の覇者』が発表された後、ディオ以外のメンバーを一新する決心をしたブラックモアによって、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを解雇された[11]1983年ゲイリー・ムーアのバンドに参加後、ゲイリー・ドリスコールやブルー・チアーのギタリストであったダック・マクドナルドらと「Bible Black」というグループを結成し、アルバム『Bibble Black』をリリースする。その後、「INFINITE METAL WERKZ」というカスタム・メイドのベース・ギターの会社を設立したが、2015年5月5日、前立腺癌との闘病の末に死去した。
  • ゲイリー・ドリスコール
    グルーバーと同じ理由で、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを解雇[11]。ローカル・バンドで活動し、1985年にダック・マクドナルド、ビリー・シーンアンスラックスのプロデューサーであるカール・ケネディらとともにフラッグ・アルバム『Thrasher』[1]を制作。1987年6月にニューヨーク州イサカ(Ithaca)で他殺体として発見された。薬物取引による事件に巻き込まれたとみられている。
  • ミッキー・リー・ソウル
    グルーバーと同じ理由で、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを解雇[11]イアン・ギラン・バンドホワイトスネイクなどパープル・プロダクションの仕事を受けつつ、現在、ディープ・パープルにはキーボードの技術者として関わっている。
  • マーク・ナウシーフ
    ドラマーとしてイアン・ギラン・バンド、シン・リジィゲイリー・ムーアのG-Forceに参加。その後、ミュージック・ビジネスとは一線を画したバリジャワガムランなどの民族音楽学を修得し、アヴァンギャルド音楽シーンで活動している。
  • ダグ・サーラー
    音楽マネージメントの仕事に就き、現在はアート・ガーファンクルリトル・フィートブルース・ホーンズビーらを抱えるマネージメント会社メトロポリタン・タレントを運営している。
  • デヴィッド・フェィンスティン
    アメリカのヘヴィメタル・バンド、ザ・ロッズを結成、80年代に活動後2008年に再結成してノルウェーでギグも行っている[2]

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

  • 『エルフ』 - Elf (1972年)
  • 『キャロライナ・カウンティ・ボール』 - Carolina County Ball (1974年) ※米国盤タイトル『L.A./59』
  • 『バーン・ザ・サン』 - Trying to Burn the Sun (1975年)

コンピレーション・アルバム

シングル

  • Hey, Look Me Over / It Pays to Advertise 7" (1967年) ※The Electric Elves名義
  • Walking in Different Circles / She's Not the Same 7" (1969年) ※The Elves名義
  • Amber Velvet / West Virginia 7" (1970年) ※The Elves名義

脚注

  1. ^ Perkins, Jeff (2012). Rainbow – Uncensored on the Record. Coda Books Ltd. p. 13. ISBN 9781908538574 
  2. ^ Daly, Skip; Hansen, Eric; Copeland, Stewart (2019). Rush: Wandering the Face of the Earth. Insight Editions. p. 53. ISBN 9781683834502 
  3. ^ Popoff (2016), pp. 113, 117, 118.
  4. ^ a b Popoff (2016), p. 159.
  5. ^ リッチー・ブラックモア・レインボー編より。
  6. ^ Popoff (2016), p. 71.
  7. ^ Popoff (2016), p. 172.
  8. ^ Popoff (2016), pp. 172, 173.
  9. ^ Popoff (2016), pp. 174, 175.
  10. ^ Popoff (2016), p. 170.
  11. ^ a b c Popoff (2016), pp. 180, 182, 184.

注釈

  1. ^ ディオの本名。
  2. ^ バダヴォナ(ロニー・ジェイムス・ディオ)の従兄弟にあたる。
  3. ^ ディオは本名を名乗り、ベース・ギターを兼任し、髭を生やしてジャケット写真に写っていることから、彼は参加していないと誤解されることがあった。
  4. ^ 1973年6月末に第2期ディープ・パープルを去って、パープル・レコードのA&Rとして活動していた。
  5. ^ 次項に示すように、本作が製作されていた1975年前半に、リッチー・ブラックモアがディオ、グルーバー、ソウル、ドリスコールとレコーディングを行なった。この為、このサード・アルバムにブラックモアが参加しているらしいという噂が流れた。後年ディオはブラック・サバスのメンバーとして来日した際、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集者の質問に答えて、ブラックモアの参加を否定した。
  6. ^ ブラックモアが1962年10月から1964年4月まで在籍していたジ・アウトローズのドラマーだったミック・アンダーウッドが結成したバンド。
  7. ^ 原曲はスティーヴ・ハモンド(Steve Hammond)作。クォーターマスは1970年5月に発表したデビュー・アルバムでカバーした。
  8. ^ ディープ・パープルはエルフを前座に、1974年11月中旬から約一か月間、アメリカ・ツアーを行なった。このツアー間に、ブラックモアとディオは「16世紀のグリーンスリーブス」を共作し、グルーバー達と録音した。
  9. ^ 公式発表は同年6月。
  10. ^ 「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」と「16世紀のグリーンスリーヴス」も収録された。

引用文献

  • Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7 

参考文献

  • シンコー・ミュージック刊「リッチー・ブラックモア・レインボー編」ISBN 4-401-61202-7
  • シンコー・ミュージック刊「ブリティッシュ・ロックの王者:紫神=ディープ・パープル」0073-61021-3129

外部リンク


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