詳細・結成の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 17:35 UTC 版)
「レインボー (バンド)」の記事における「詳細・結成の経緯」の解説
そもそものきっかけは、1974年の8月に録音が開始されたディープ・パープルの『嵐の使者』の制作中に表面化した、他メンバーとの音楽的な対立とされている。 リッチー・ブラックモアは、クォーターマスの「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)という曲の録音を希望したが、カバー曲であるなどの理由で、ディープ・パープルのメンバーから拒否されていた。 だが、アルバムの録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって、時間的な余裕が生じたため、リッチー・ブラックモアは、かねてより気に入っていたアメリカのバンド「エルフ」のボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオを起用して同曲を録音、さらに、ロニー・ジェイムズ・ディオとの共作である「16世紀のグリーン・スリーブス」(Sixteenth Century Greensleeves)も合わせて録音した。当初はこの2曲でソロ・シングルを制作する予定だったが、リッチー・ブラックモアはこの2曲の出来の良さを気に入り、エルフを吸収する形で新しいバンドを結成することを企図した。 1975年2月 - 3月、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにて、ギタリストを除くエルフのメンバー全員とアルバム用の曲を録音。4月7日のパリ公演を最後にリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退(ただし、公式発表は6月)。8月10日、オイスター・レコードより、当時のバンド名と同名のアルバム『Ritchie Blackmore's Rainbow/邦題=銀嶺の覇者』をリリース、デビューに至る。
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