エノー女伯とブルゴーニュ公の戦いをめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:11 UTC 版)
「ジョン・オブ・ランカスター」の記事における「エノー女伯とブルゴーニュ公の戦いをめぐって」の解説
1425年10月には弟グロスター公とその妻エノー女伯ジャクリーヌがエノー継承権を求めて同地へ進軍し、同じく同地の継承権を主張する善良公と対立した。ベッドフォード公にとってははた迷惑以外の何物でもなく、これによってベッドフォード公と善良公の同盟関係も怪しくなってしまった。しかし結局弟がジャクリーヌを見捨ててロンドンへ逃げ帰ってくれたので、ベッドフォード公は善良公への圧力を再び強められるようになった。 1426年には海軍司令長官に就任した。1427年には本国でヘンリー6世の補佐をめぐって弟と義理の叔父ウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートの対立が深まったため、急遽帰国してその仲裁に当たっている。バット議会を招集することで両者の和解にこぎつけた。 1428年にデルフトでジャクリーヌと善良公の間に協定が結ばれ、善良公がジャクリーヌのエノー、ホラント、ゼーラントの権利の相続人となった。この際にベッドフォード公は善良公に対してジャクリーヌ支援を放棄する代わりに対フランス戦争に参加するよう求めたが、善良公は拒否して動かず、中立的立場をとった。
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