エジプト・オスマン・ギリシャ歴訪
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「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「エジプト・オスマン・ギリシャ歴訪」の解説
ギリシャ国王ゲオルギオス1世は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年からクレタ島でオスマン帝国の支配からの解放とギリシャ帰属を求めるギリシャ人の反乱が発生し、ギリシャ、オスマン、エジプトの間でクレタ島領有権争いが激化したため、慎重に判断する必要があった。 1868年12月に政権についた第1次グラッドストン内閣(自由党政権)の外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズもクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた。 そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、オスマン帝国にも歴訪するプランに変更することで訪問を政府に認めさせた。1869年1月からエジプトを訪問し、ついで3月からオスマン帝国を訪問した。そして4月からギリシャを訪問して5月に歴訪の旅を終えた。バーティはいずれの国からも大歓迎され、関係を深めることができた。
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