イマーム・ムーサー・カーズィムの役割とその時代
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「十二イマーム派」の記事における「イマーム・ムーサー・カーズィムの役割とその時代」の解説
イマーム・ザーディクの後、第七代イマーム・ムーサー・カーズィムがイマーム・サーディクのマクタブ(理念)を継承した。彼の時代にも、彼と相対するようなマクタブや諸党派が存在していた。イマーム・ムーサー・カーズィムとその弟子たちは、そのようなマクタブの指導者たちとの討論に努めた。イマーム・カーズィムから伝わる法学の伝承は第五代イマーム並びに第六代イマームに次いで多い。 この時代も、マンスールのカリフ位が終わるまで、同じ状態が続いた。マンスールの後、ハールーン・アッラシードがカリフ位を継ぐまでの間は、事態の改善が見られた。しかし、ハールーンがカリフ位を継承すると、再び厳しい状況に追い込まれた。にも関わらずイマーム・ムーサー・カーズィムは政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった。例えば、ハールーンがファダク地所をイマームに返還しようとすると、イマームはそれに応じてイスラームの領域境界をファダクの境界として言明し、こうしてイスラームの領域全てに対する統治権をあからさまにハールーンから要求した。これは当時の条件下において最もあからさまかつ最も過激な政治的立場であった。また、イマーム・ムーサー・カーズィムはサファヴァーン・ジャンマールと衝突したことも政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった一例である。イマームの追随者の一人であるサファヴァーンは、彼のラクダを巡礼のためにハールーンに貸していた。イマーム・ムーサー・カーズィムはこれを知り彼に叱責し、いかなる種類であっても不正なるカリフとの協力を禁止した。しかし、アリー・イブン・ヤグディーンがイマームの許可のもとで、ハールーンの宰相として、イマームの目的を具現するために尽力した場合は例外とした。 カリフは日に日にイマームに対する締め付けを強めていった。最終的にカリフの命により、イマーム・ムーサー・カーズィムはメディナの預言者モスクでの礼拝時に捕えられ投獄された。さらにバスラやバクダードに連行され、数年にわたって牢獄をたらい回しにされた挙句、殉教した。
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