イオニアの反乱とその余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:28 UTC 版)
「クレオメネス1世」の記事における「イオニアの反乱とその余波」の解説
紀元前499年、ミレトスの僭主アリスタゴラスがスパルタに来て、クレオメネスにペルシアへのイオニアの反乱への協力を要請した。アリスタゴラスはペルシアの富について語って、ペルシアに勝てばそれらはスパルタのものだと言ってクレオメネスを説得したが、ペルシアとの距離の大きさを知るやいなやクレオメネスは彼を追い返した。ヘロドトスによれば、クレオメネスの娘ゴルゴがクレオメネスにアリスタゴラスは彼を堕落させようしていると言って、この男を信じないように警告したという。結局イオニアの反乱は紀元前494年に鎮圧され、アリスタゴラスは逃亡中のトラキア人と戦いで戦死した。 イオニアの反乱の鎮圧と同年の紀元前494年、デルフォイにてアルゴスを占領できるとの神託を受けたクレオメネスはアルゴスに侵攻し、アルゴス軍をセペイアの戦いにて破った。この戦いでアルゴスは成年男子のほとんどを失い、その数はヘロドトスによれば6000、パウサニアスによれば5000にものぼった。この戦いでの不手際で反対者によって彼は訴えられたが、無罪を勝ち取った。 イオニアの反乱を鎮圧した後ペルシアはギリシアに侵攻し、その時多くの都市国家は早々に服従した。紀元前492年にはアイギナがペルシアに服従した時、アテナイはそれはアテナイの不倶戴天の敵であったアイギナがペルシアと組んでアテナイを攻めようとしたためであるとし、また、その報を受けたクレオメネスはギリシアを裏切ったとしてその首謀者を逮捕しようとした。しかし、もう一人のスパルタ王デマラトスはそれに協力しようとせず、アイギナ側は王が二人いないからと言って引渡しを拒んだ。 デマラトスの度重なる妨害に堪忍袋の緒が切れたクレオメネスはエウリュポン朝の王族レオテュキデスと協力した。デマラトスの出生の秘密を根拠として彼を廃位し、レオテュキデスを王に据えた。こうして二人の王は改めてアイギナにペルシアへの協力者の引渡しを要求し、アイギナはそれに従い、引き渡された人々はアテナイに身柄を引き渡された。
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