アカイア政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 07:06 UTC 版)
「フィリッポ1世 (ターラント公)」の記事における「アカイア政策」の解説
1316年にルイ・ド・ブルゴーニュが嗣子なく死去し、アンジュー家のアカイア政策が予期せぬ方向に向かった。マオーは、ロベルト1世により、フィリッポの弟ジョヴァンニと結婚することとなった。マオーは拒否したが、誘拐されナポリに連れてこられた。長い脅迫と説得の末、1318年にマオーは結婚の承諾を強制され、フェデリコ・トロギシオが新しいバイイとしてアカイアに派遣された。1320年ブルゴーニュ公ウード4世は、長い抵抗の末、アカイアとテッサロニキの権利をクレルモン伯ルイ1世(後のブルボン公)に40,000リーブルで売却することを承諾した。しかし、フィリッポはフランス王フィリップ5世から資金提供を受け、1321年に同額でアカイアの権利のみ購入した。一方、マオーはアヴィニョンの教皇のもとに連れてこられ、そこで密かにブルゴーニュ貴族ユーグ・ド・ラ・パリスと結婚していたことを明らかにした。マオーとジョヴァンニとの結婚は解消されたが、秘密裏の結婚は、アンジュー家がアカイアを没収する口実を与えることとなった。当然ながら、アカイアはブルゴーニュ公に支払われた40,000リーブルと引き換えに、直接ジョヴァンニに与えられた。マオーはその後、ナポリで虜囚のまま生涯を送った。 フィリッポはラテン帝国を取り戻す事を目論み、1318年には甥のハンガリー王カーロイ1世と同盟したが、果たすことはできなかった。1330年、最初の妻との間の最後の男子フィリッポが死去し、ルーマニア専制公の地位が自身に戻された。2年後、フィリッポの死によりその権利の全ては二度目の妻との間の長男ロベルトに継承された。
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