ぽん太との暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 13:18 UTC 版)
写真をはじめ、清兵衛の道楽は桁外れで、その豪遊ぶりから「今紀文」や「写真大尽」などと呼ばれた。たとえば、大日本写真品評会会長の徳川篤敬の日清戦争凱旋を祝うために、列車を1両買い取って座敷列車に仕立て直し、ぽん太ら芸者や芸人を多数連れて京都へ漫遊したこともあり、当時の取巻きの一人だった三遊亭円右はこのときの模様を「鹿嶋大尽栄華噺し」として高座の 1 つ話にしていた。1896年(明治29年)には、鴎外がのちに小説にした「百物語」を隅田川船上で開催している。 そうした中、清兵衛と乃婦の夫婦仲は次第に冷えていった。清兵衛は横浜の外国人がぽん太を狙っていると耳にするとぽん太を別宅に住まわせ、これがさらに乃婦を硬化させ、乃婦は子供を連れて親戚の家へ身を寄せた。ぽん太が妊娠したこともあり、清兵衛は新川の実家を捨てて、ぽん太と暮らし始め、1897年ころ、ついには鹿嶋家とは離縁となった。清兵衛のお大尽生活は約4年で終止符となり、「玄鹿館」も閉鎖された。大阪で再起を図ったがうまくいかず、再び東京に戻って1907年(明治40年)に本郷座の前に「春木館」という小さな写真館を開店した。
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