早乙女為房(さおとめためふさ? 1840-1910)
早乙女(清太郎)為房は静岡藩士で、旧幕臣(工兵差図役)として函館戦争に参戦し、のちに陸軍参謀局勤務となる。
明治初期、官庁組織の改編は著しいものがあった。現国土地理院に連なる陸軍省参謀局は、同省第6局測量課(同6年3月)、さらに参謀局第5課(地図)、第6課(測量)(同7年2月)と変更される。その陸軍省の測量は、明治6年最初の測量技術者となった福田治軒の出仕に続いて、翌明治7年2月には矢島守一、同年にはさらに「出仕官7名、雇員4名・・・第6局附きを命ぜらる」(陸地測量部測量事業の沿革)とあって、このころから事業が本格的に実施される。
早乙女為房は、大学南校少得業生・文部省出仕などを経て、明治5年陸軍省に出仕した。早乙女の名が参謀局に登場するのは、明治8年12月に参謀局第6課が着手した皇居を中心とする5千分の1地図作成のための測量に、福田治軒、矢島守一、日和佐良平らとともに主任として従事したときである。したがって、早乙女は、参謀局に第6課が置かれた同7年2月に移動してきた生え抜きの陸地測量手の一人であり、明治21年には日本地理辞書編輯質問委員となった。
東京帝大教授で、昭和3年から東京天文台長をつとめ、南洋諸島での皆既日食観測に隊長として遠征するなどした早乙女清房(そうとめきよふさ1875-1964)は、早乙女為房の系譜に連なる者かも知れないが確認できていない。
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