これまでの動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:05 UTC 版)
ローマはガリア・キサルピナ (北イタリアのポー川流域)の部族とは長年に渡って和平を結んでいた。 実際、紀元前230年にガリア・トランサルピナの部族がアルプスを越えイタリアへ侵入して来た時には、キサルピナのボイイ族が撃退している。ローマは援軍を送ったが、その必要もなかった。ただし、紀元前232年、ガイウス・フラミニウスによってアドリア海に面した元ガリア人の領土ピケナムが市民たちに分割された事で、その周辺のボイイ族やインスブレス族の恨みを買う事になる。 紀元前225年、ボイイ族とインスブレス族は、トランサルピナに陣取るアネロエステスとコンコリタヌスに率いられた戦闘集団ガエサタエを莫大な報償で雇入れ、反乱を起こした。 ローマ人はこのガリア人の行動に危機感を抱き、ヒスパニアを支配していたカルタゴ人の将軍 ハスドルバル と不可侵条約を結ぶ事で、近場の脅威に集中することが出来た。 ローマはアウクシリアを動員し、執政官パピリウスは22000人からなる市民兵4軍団と32000の同盟軍を率い、その大部分をアリミヌムに集結させた。更に54000のサビニ人とエトルリア人部隊をプラエトルに授けてエトルリア国境に展開させる一方、ウンブリア人、サルシナ人、ウェネティイ族、ケノマニ族からなる40000の別働隊にボイイ族の本拠地を攻撃させ、彼らを戦闘から切り離すことに成功した。もう一人の執政官レグルスはほぼ同数の市民兵21500と同盟軍32000を率いてはいたが当時サルディニアにおり、更にシキリアとタレントゥムに予備の二個軍団が駐屯していた。
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