小宮山昌寿(こみやままさとし? 1842-1895)

小宮山昌寿は、静岡の人で、幕末開成所で学び、旧幕府軍では工兵に属し函館戦争に参戦した。
明治政府になって陸軍築造局に出仕し(明治5年)、その後兵学寮に移り教導団教官となった。そのとき、習志野地方陸軍大演習の一環として、日本で最初の本格的な平板測量図(1万分の1地形図「習志野原及び周回邨落図」)の作成にあたった(明治8年)。その後、のちに初代陸地測量部長となる小菅智淵が参謀本部測量課長となると(明治12年)、彼を支える人材として、士官学校教官関定暉、士官学校付宇佐美宣勝とともに、教導団教官の小宮山昌寿が課僚として呼び寄せられ、少佐に昇任する明治15年まで測量課に在籍した。その後工兵会議に所属し同24年に休職・予備役編入となる。一方で、小宮山は早くから私塾新民義塾を開き、そこで英語・数学を教授し、その教え子を測量課へと送り出した。そのことから、その後の昇進が見送られたのではないかとの見方をするものもある。

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