河原貞頼(かわらさだより 1665-1743)
河原貞頼は、信州松本城主戸田光永の家臣で、測量術を清水貞徳に学び、軍学を伊賀風山に学んだという。清水貞徳から測量術を学んだのは、元禄4年(1691)から同10年(1697)の間だと思われる。
その河原貞頼は、初め戸田の下で美濃加茂に在し、元禄年間の日本国図改正のとき、城主(戸田)の命を受けて美濃国絵図を製した。その時に清水流測量術が生かされたという(元禄12年 1699完成)。
著書には、享保13年(1728)に作成された測量術書「規矩元法」がある。「規矩元法」の内容は、師の清水貞徳の所伝から記録したところが多く、後書きには「戸田光永が美濃加茂城主当時、幕府の元禄図絵図製作に接し、これを従事するにあたって、清水が伝えた術により成功することができ、この時の教えが口伝であったので、失われるのを恐れ記録した。」とあるという。
河原貞頼はこの間、藩主の移封に伴って美濃加納藩、山城淀藩、志摩鳥羽藩にあったが、享保二年(1717年)松本藩へと戻る。その松本藩で測量術を教えるにあたり、清水流測量術を整理したのが前書などだと思われ、これ以降松本藩には、代々彼の意志を継ぐ測量術が続いたという。
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