かつ子の死と再婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)
1910年11月頃より妻かつ子が葡萄状妊娠の貧血より衰弱し、腹膜炎を併発して、1911年(明治44年)3月8日に死去した。3月9日に柏木の聖書学院講堂で葬儀が行われた。東洋宣教会東京部長であった清水俊蔵の司式、本多庸一の代理として、中田が説教をした。3月14日にはかつ子の追悼会が行われた。 中田は5月には静岡、神戸で巡回伝道をした。この頃から、カウマンとキルボルンらと東洋宣教会の管理の主導権に関して意見の食い違いが生じるようになった。 1911年8月に今井あやめ(英語名Iris)と再婚する。結婚直後の8月4日より、福島県白河市、郡山市、会津若松市、福島市、仙台、それから山形県を北上し山形市、楯岡(現、村山市)、新庄、秋田県に入り秋田市、能代、大館、小坂町、最後に、青森県弘前市まで伝道旅行をし、その年9月10日に帰京した。
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