かって営まれていた産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:59 UTC 版)
備前堀と直結していた頃の千波湖は用水源として備前堀下流の水田に水を供給する役目を持っていた。大正後期から昭和前期の千波湖改修事業で備前堀は桜川から水を引くようになり、千波湖の農業利用としての価値は減じた。一方改修事業により干拓された湖東部分は水田化され68町5反歩(約0.68キロ立方メートル)の面積の作付け地が誕生した。湖沼として残った湖西部分も太平洋戦争後には全面を干上がらせた上で水田として農業利用していたこともあったが、これは極一時期なものであった。水産業利用としては江戸時代から明治時代まで千波湖は禁猟地であり、おおっぴらには漁業は行われず湖中のジュンサイの収穫だけが行われていた。漁業は1901年以降に解禁されたと思われ、コイ、エビ、ドジョウなどの漁獲をあげている。一時期はコイの養殖も行われた。千波湖がまだ大きかった時期では湖中を南北に横断する渡し船の運航が営まれていた。
※この「かって営まれていた産業」の解説は、「千波湖」の解説の一部です。
「かって営まれていた産業」を含む「千波湖」の記事については、「千波湖」の概要を参照ください。
- かって営まれていた産業のページへのリンク