おとなになれなかった弟たちに…
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『おとなになれなかった弟たちに…』(おとなになれなかったおとうとたちに)は、1983年に偕成社が刊行した、米倉斉加年の絵本。
あらすじ
『おとなになれなかった弟たちに…』は、表紙とあとがきを含めて34ページの絵本で、画家でもある米倉の絵が16枚載っている(36刷)[1]。
太平洋戦争の日本を舞台としており、作者(文中では1人称で「ぼく」)が国民学校(現在の小学校にあたる)4年生だったときに弟ヒロユキが生まれる。父は戦争に行き不在であった。戦争が激しくなり空襲を受け防空壕で毎晩暮らす生活の中で、日本中、もちろん作者の家も食料が不足し、母は自分が食べる分を作者や作者の妹に回していたが、満足に食べない為に母は母乳が出なくなった。乳児であるヒロユキは乳を飲むしかないにもかかわらず、ときどきにしか配給されないヒロユキの為の粉ミルクを、当時甘いものは無く、甘いものが欲しい作者は盗み飲みしてしまう。そんな作者に母は怒るでもなく、『ミルクはヒロユキのごはんだから、ヒロユキはそれしか食べられないのだから』と言う。さらに空襲がひどくなり、母は疎開を決心する。母と作者、ヒロユキ3人で親戚を訪れるが親戚は顔を見るなり用件も聞かずに『うちに食べ物は無い』という。やがて、疎開先も見つかるが、疎開先では配給も無く、食べるものと交換に持っていた着物を出さねばならず、やがて着物も無くなる。そしてヒロユキは栄養失調で死亡する。母はヒロユキが死んだ際にも涙を見せなかったが、ヒロユキを小さな棺に入れるとき、棺が小さすぎてヒロユキの亡骸が納まらなかった。母は(ヒロユキがほとんど乳を飲むことができなかったにもかかわらず)「大きくなっていたんだね」と言い、そして、それまで決して涙を見せなかった母がはじめて泣いた。終戦の約半月前のことだった[2]。
執筆
米倉は、小さいころから作文が苦手であったという。新制中学の校内弁論大会のとき、「弟の死」というタイトルの長い作品を初めて書いた。米倉は、後年になって、その作品が本作の原型であったかもしれないと振り返っている。その弁論大会で、米倉は1位になったが、結局教師にほとんど書き直されていたため、「僕は、弟が死んだことを書きたかった。その『種』のところは確かに残っていたけれど、構成やエピソードは先生の手によるものだったということを覚えています」と、複雑な思いであったと語っている。
米倉は、「自分の言葉で、自分の手で、弟の死をきちんと書こう」と本作を書き始めた。挿絵に関しては、当初、本が売れるような絵を描いていたが、馴染みの宿屋に滞在して作業を進めていたとき、「やっぱりいかん」「昔の、小学校のころの絵を描かないと」「自分の『戦争』を記しておこう」という思いがわいてきたという。
「僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。」という、作品の冒頭の一文は自然に出てきた。そのとき、米倉は国民学校4年生だったころの自分になっていた。その上で米倉は、弟のミルクを盗み飲みしたという「いちばん恥ずかしくて言えなかったこと」を書く決意をした[3]。
米倉の言葉から
米倉は、日本経済新聞に連載した半生記のなかで以下のとおり語っている。
息子から十一年後に娘が生まれた。その娘が1999年に子を産んだ。男の子だった。授乳している娘の姿に戦時中の母と弟の面影を見る。弟は敗戦を半月後に控えた七月二十八日に疎開先で死んだ。栄養失調だった。母は私や妹に食べさせ自分は食べなかった。母の乳は出なくなった。配給のミルクは一缶。私は甘いミルクを盗み飲みした。弟は死んだ。-引用 日本経済新聞 2001年2月3日朝刊32面
また、米倉はある対談のなかで次のように発言している。
ぼくも自分の弟が、オレがミルクを飲んだために死んだという恨みつらみがあるんですよ。子どもには小さな缶が一つ配給されるだけだもの、食べ盛りのぼくは盗み飲みするわけですよ。もし、ぼくがあれを飲まなければ生きていたんじゃないかという、この恨みは激しいんだ。誰が殺した。ぼくが殺した。じゃそういう状況に追い込んだのはいったい何なんだ・・・・-引用 松永 伍一、米倉 斉加年 対談集 『風よついてこい』小学館、1983年、p.149-150
タイトル・作品中の表記について
「おとなになれなかった弟たちに…」と「弟たち」と複数形にしている理由は、作者の弟のように栄養失調が原因でなくなった、弟と同じような思いをした乳幼児がたくさんいるためである[4]。 タイトルの末尾に「…」とあるのは、本作が戦争で亡くなった弟たちに対する鎮魂歌(レクイエム)であることを意味している。末尾の点の数は、米倉の絵本のカバーでは5点、カバー背表紙と表紙では4点、奥付けでは3点、光村図書出版の教科書では6点である[2][5]。
弟の名前はカタカナで「ヒロユキ」となっている。これはそれぞれ被爆地である広島を「ヒロシマ」、長崎を「ナガサキ」と表記するのと同じで、作者の弟の実名であらわすよりも事柄を普遍化できるためである[4]。
作品の舞台
現在[いつ?]の本には記されていない可能性はあるが、疎開先は福岡県の石釜地区[注釈 1]であると記載されている。
教科書での採用
この作品は1987年(昭和62年)度採用の版からおよそ30年以上、光村図書出版の中学校1年生の国語教科書で採用されている[6]。作品の採用の意図として「表現に込められた、登場人物の心情や作者の思いを読み取る」「時代や状況の中で自分を見つめていくことの大切さを考える」「作品の中で生きる表現」「つながりを読む」と挙げている[7]。
2006年(平成18年)度から2009年(平成21年)度まで採用の版の指導CDの作品およびあとがき(資料)の朗読は作者自身が行っている。
死んだヒロユキばかりではない。罪も無い乳児を栄養失調で死なせなければならなかった周囲の大人達も不幸である。自分の子に何もできず顔すら見ることができなかった父も不幸である。作者一家の顔をみるなり追い返さなければならなかった親戚も不幸である。弟のミルクを奪った作者も不幸である。なによりも自分の長男が次男の唯一の食料を取ることを咎めることが出来なかった母はもっとも不幸である。弱い子供が被害者であるとともに、より弱い者に対しては加害者になってしまう。被害者を、同時により弱い者への加害者にもしてしまったものはいったいなんであるか?ヒロユキのミルクを主人公が盗み飲みすることを母は何故?きつく咎めることが出来なかったのか?教科書の指導書は生徒の指導に当たって問いかけるよう求めている[7]。
脚注
注釈
出典
参考文献
書籍
- 樺島 忠夫、宮地 裕、渡辺 実光 監修 『中学国語1-上』平成17年文部省検定教科書、光村図書出版、2006年
- 西郷 竹彦 監修、文芸教育研究協議会 編集『文芸研教材研究ハンドブック. 中学校 1』明治図書出版、1993年、ISBN 4-18-636104-5
- 松永伍一、米倉斉加年 対談集『風よついてこい』小学館、1983年
- 光村図書出版編集『中学校国語学習指導書 1-上』H13/14版 光村図書出版、2002年
- 光村図書出版編集『中学校国語学習指導書 1-上』H17/18版 光村図書出版、2006年
- 米倉 斉加年 著『おとなになれなかった弟たちに…』偕成社、1983年、ISBN 4-03-963200-1
新聞
- 日本経済新聞 2001年2月3日朝刊
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