槐本之道
伏見屋久右衛門という大坂道修町の薬種問屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。芭蕉の最後を看取った一人。元禄7年9月9日に大坂に着いた芭蕉は、最初酒堂亭に入るが、後に之道亭に移る。酒堂と之道はこの頃対立していて、芭蕉は膳所の正秀らの懇願にあって両者の和解を策した。一応成功したようだが、そのために両者に均等に泊ったのであろう。しかし、突如発病し、10月5日には之道亭を出て、病床を南御堂前に移すことになる。之道には『江鮭子<あめご>』・『淡路島』・『砂川』などの編著がある。東湖は初期の俳号、元禄3年6月、芭蕉が幻住庵滞在中に尋ねて蕉門に入門。これを機に「之道」と改名。楓竹は晩年(元禄10年)の俳号。
之道の代表作
雲のみね今のは比叡に似た物か(『猿蓑』)
一袋これや鳥羽田のことし麥(『猿蓑』)
十五日立や睦月の古手賣(『炭俵』)
老僧も袈裟かづきたる花見哉(『炭俵』)
白うをのしろき匂ひや杉の箸(『炭俵』)
灌佛や釈迦と提婆は従弟どし(『續猿蓑』)
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