『曽我物語』などでの描写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:48 UTC 版)
「千鶴御前」の記事における「『曽我物語』などでの描写」の解説
『曽我物語』には大きく分けて真名本と仮名本の2系統がある。真名本によれば、流人時代の源頼朝は「伊藤助親」(伊東祐親)の三女と恋仲になり、「千鶴御前」を儲けた。京都から帰郷した助親は、流人である頼朝の血を引く千鶴御前の誕生を知り、領家である小松殿(平重盛)から咎めを受けることを恐れ、将来の禍根を断つとして、郎党らに命じて「松河の奥」の「岩倉の瀧山蛛が淵」に千鶴御前を沈めて殺害した。 殺害場所について、仮名本系統では「とゝきの淵」、「とくさのふち」などの異同がある。『源平闘諍録』や仮名本系『曽我物語』では、助親の妻女(八重姫の継母)が千鶴御前の存在を助親に告げたとする。 『曽我物語』において、伊藤助親(伊東祐親)・八重親子は、北条時政・万寿(仮名本系では「朝日御前」。北条政子)親子と対になる存在であり、貴人たる頼朝を拒んだ伊東家は滅亡し、迎え入れた北条家は繁栄するという物語類型となっている。 上記の祐親三女と千鶴御前に関する記述は虚構の多い『曽我物語』や軍記物語の『延慶本 平家物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』のみで、頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ない。ただし、鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』の治承4年10月19日(1180年11月8日)条と養和2年2月15日(1182年3月21日)条に、安元元年(1175年、頼朝29歳)の9月頃、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたこと、挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に因縁があったことは認められる。
※この「『曽我物語』などでの描写」の解説は、「千鶴御前」の解説の一部です。
「『曽我物語』などでの描写」を含む「千鶴御前」の記事については、「千鶴御前」の概要を参照ください。
- 『曽我物語』などでの描写のページへのリンク