「闘争派」結成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:55 UTC 版)
その後、スハルト政権は坂道を転がり落ちるようにして崩壊へと向かっていくが、スハルト政権崩壊後、第3代大統領に就任したハビビは、急進的な批判勢力の機先を制する形で、言論の自由化などを認める一連の政治改革案を矢継ぎ早に打ち出した。 そうした政治改革の重要な柱として、結社の自由を認める新政党法が制定されると、1999年6月7日に予定される総選挙へむけて、各勢力が新党を結成しはじめることになった。 「7月27日事件」でインドネシア民主党を追放されたメガワティ派もまた、新党結成へ向けて動き出した。「メガワティ降ろし」直後の1997年総選挙で議席を大幅に減らした民主党からも党員たちが離脱してメガワティ派に加わり、華人をはじめとする企業家たちや、イスラーム勢力の台頭を警戒するクリスチャン勢力、そして素性の知れぬ怪しげな者たちなども加えて、メガワティ派は大きな勢力を形成した。 新党名は「Partai Demokrasi Indonesia-Perjuangan」となった。インドネシア民主党(Partai Demokrasi Indonesia)の流れを一部引き継ぎつつも、スハルト政権下でおおざっぱに結成された万年野党としてではなく、そういった色彩を一掃して「Perjuangan(闘争)」の精神を表明するという意気込みが感じられる党名となったわけである。
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