「純農村」期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:54 UTC 版)
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。 1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。
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