「油井領」「由井衆」と浄福寺城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:05 UTC 版)
「浄福寺城」の記事における「「油井領」「由井衆」と浄福寺城」の解説
永禄2年(1559年)に後北条氏にて作成されたとされる『小田原衆所領役帳』には支城領ごとに家臣名と役高が記されているが、そのうちの「他国衆」の中に「油井領」と呼ばれている地域の記載がある。また、北条氏照が発給した文書に「由井衆」「由井領」と記されたものがあり、前者は元々旧大石氏の家臣であった者に宛てて出された書状であるため、「油井領」「由井領」は旧大石氏あるいは氏照の支配地域であり、「由井衆」は旧大石氏家臣を含む氏照の家臣団であったと推定される。つまり、旧大石氏と関わりの深い地域に油井城・由井城と称すべき後北条氏の支城が存在していたことになる(ただし、『小田原衆所領役帳』作成段階の大石氏は公式には「他国衆」に属する従属国衆で、氏照はその養子として家督を継いだ扱い)。 これについて、齋藤慎一が同地域に関する古文書や浄福寺城の遺構に関する分析から、従来の大石氏に関する伝承を否定して、浄福寺城こそが後の「由井領」の由来ともなった大石氏の本拠である由井城(ゆいじょう)であり、大石氏を継承した北条氏照も当初はここを本拠としており、永禄6年(1563年)から10年(1567年)頃に初めて滝山城を築いて本城を移したとする説を提示している。
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