「幽閉」の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:29 UTC 版)
山椒魚は悲んだ〔ママ〕。-たうたう出られなくなつてしまつた。斯うなりはしまいかと思つて、僕は前から心配してゐたのだが、冷い冬を過して、春を迎へてみればこの態だ! だが何時かは、出られる時が来るかもしれないだらう。・・・ 「幽閉」書き出し 「山椒魚」は井伏鱒二が最初に発表した作品であるとともに、その作家生活のほとんどの期間にあたる60年あまりの間、井伏によって改筆が続けられた作品である。「山椒魚」が最初に着手されたのは1919年(大正8年)、井伏が早稲田大学文学部に在籍していた時であった。当時21歳の井伏はこの年の夏休み、郷里で「やんま」「ありじごく」「幽閉」「蟇」といった動物を主人公にした短編を数篇習作として書き上げ、級友の青木南八に送った。このうちの「幽閉」が「山椒魚」の初稿にあたるものである。これらの動物を扱った短編のうち、あとまで残ったのは「幽閉(山椒魚)」と「たま虫を見る」(『文学界』1926年1月号掲載)の二篇のみで、残りは散逸している。また「幽閉」も初稿そのものは残っておらず、のち雑誌に発表するにあたってどのように手が加えられたのか(あるいは加えなかったのか)は分からない。なお、動物の短編ばかり書いたのは、当時流行していたシンボリズムの影響であったらしい。 井伏は早稲田大学を退学した後の1923年7月、早稲田大学仏文科の同人雑誌『世紀』に参加し、同誌に「幽閉」を掲載した。このときまだ青森中学校の1年生だった太宰治は、兄が東京から持ってきた多数の同人雑誌を読んでこの「幽閉」に注目し「天才を發見したと思つて興奮した」という思い出をのちに記している。しかし「幽閉」は世間的な評判を得ることはなく、『読売新聞』の文芸欄では「古臭い」という趣旨の批評が1行半程度書かれただけであった。
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