「オープンラグビー」で初の日本一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:38 UTC 版)
「コベルコ神戸スティーラーズ」の記事における「「オープンラグビー」で初の日本一」の解説
1988年、林から主将を受け継ぐことになった平尾は、当時弱かった FWに固執せず、バックス(以下、BK)をどんどん多用するという、大学のラグビーチームが志向している「オープンラグビー」(展開ラグビー)にチームスタイルを改めた。そのことは、社会人ラグビーの長年にわたる風習ともなっていた「テンマンラグビー」との決別を意味することにもなった。 しかし、同年の関西社会人リーグでは、近鉄、ワールドといった強力なFW力を持つチームに敗れ、平尾のチーム作りに疑問を呈するラグビー関係者もいたが、全国社会人大会(秩父宮)では、平尾が当初から目指してきたオープンラグビーが開花し、優勝候補筆頭だった三洋電機に競り勝ち、東芝府中戦ではことごとく横展開からBKのトライが決まって快勝。初の社会人大会優勝を果たした。また1989年1月15日に行われた日本選手権(国立競技場。以下、日本選手権は国立開催のため表記なし)では、大東文化大学を後半圧倒。初のラグビー日本一の座を手中にした。この優勝が当チーム7年連続日本一の第一歩となるのである。
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