「じゃぼりの馬のあしあと」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:48 UTC 版)
「北之川親安」の記事における「「じゃぼりの馬のあしあと」」の解説
親安が三滝城を枕に戦死する前、妻に暇乞いを出している(『惣川誌』ではこの妻の出自を「宇和郡領主西園寺の女」と記している)。その妻にまつわる伝説が、三滝城から北に離れた惣川村に残っている。 北之川殿奥方左近佐の妻女に申さるるは、今土佐の大軍押寄する由、武運に任すと言え万一城中にて人手に掛らんも計り難し、急ぎ惣川常則を頼み落行左右吉を待べしと涙と共に暇乞し、小笹と言う下女勘十郎と言う僕一人、馬の口取り急ぎ惣川藤の内と言う所まで落行、見渡せば惣川城々残らず火を掛け物凄き体なり、前後行先あらざれば、ここに影を隠しくれよと有ければ、常輪と言う者申す様、殿には早討死と承る、さりとは未練の至りなしと恥しめければ、是非なく馬に打乗り、小笹、勘十郎引添えて鉢ヶ森の火はの中へ乗りこみ、人馬諸共城の煙と消えにけり、無残の次第なり。 『三滝城史』 地元の伝承では鉢ヶ森城を「八ヶ森城」としているが、内容は同じである。 藤の内集落で状況に絶望した下人が自害し、妻はなおも天神集落(かつての惣川村の中心地)まで落ち延びたが常則に会える見込みが立たず、ここで自刃した(この「常則」が誰を指しているかは不明)。この時妻が乗っていた馬はさらに寺上集落まで進み、まだ火の消えていない八ヶ森城に飛び込んだとされている。この馬が飛び立つときに出来たといわれる足跡が残った岩が今も寺上集落には残されており、小さな祠も建っている。
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