「くノ一」とする俗説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 14:50 UTC 版)
歴史考証家の稲垣史生は、仮にも武将の妻が、巫女のような低い身分と直接関わることは考えにくいことを根拠に、前述の自著において、禰津村の巫女たちはくノ一であり、武田家のために各地で情報収集を行ったという仮説を説いた。 望月千代女の名が広まったきっかけは1991年の「決定版「忍者」の全て」(『歴史読本 臨時増刊号』1991年)で名和弓雄が千代女の伝記と称する2ページの記事を載せたことによる。この雑誌の同号では丹野史良も千代女について述べている。なお、この記事において名和は千代女が上忍であった旨を述べているが、そもそも忍びの者には「上忍・中忍・下忍」という名称の階層区分は存在しない。 通俗書では女忍者と説明されることもあるが、この説の初出は時代考証家の稲垣史生が著した『考証日本史』(人物往来社、1971年)である。 三重大学人文学部准教授の吉丸雄哉は、稲垣のくノ一説について内容の大部分が憶測だけで書かれていると指摘している。
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