野川 (川崎市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 13:40 UTC 版)
地理
広大な台地を中心とした地域で、平地は矢上川や有馬川(いずれも鶴見川の支流)の流域近辺に限られている。
台地・平野問わず、広く農業が営まれてきたが、近年は平地や傾斜地での宅地開発が急速に進んでいる。台地においても、東急野川団地を初めとするマンション建設が増えた結果、この地域は川崎市内でも有数のベッドタウンとなった。[4]大小問わず、公園や手つかずの自然も多い。しかし、人口の増加に地域インフラの整備は追いついておらず、特に商業施設の不足が目立っている。多くの住民は、自家用車やバスで武蔵小杉、溝口、鷺沼、港北ニュータウンへ買い物に出る。
面積
面積は以下の通りである[1]。
区 | 大字 | 面積(km2) |
---|---|---|
高津区 | 野川 | 0.424 |
宮前区 | 野川 | 2.656 |
計 | 3.080 |
地価
住宅地の地価は、2021年(令和2年)1月1日の公示地価によれば、野川字西耕地3013番11の地点で19万7000円/m2となっている。[5][注釈 1]
歴史
野川の地名の由来は矢上川の流れによるものと考えられる。南北の丘陵のあいだを流れる矢上川が「野川」と呼ばれ、それに沿う村という意味で「野川村」になったと思われる。
1950年代までは古い農村の姿が残っていた。低地・谷戸には水田、台地上には畑作、雑木林は炭林に。大正時代には養蚕が盛んだったが、戦後は代わって養鶏・養豚が盛んになった。
1950年頃からは東京急行電鉄(現・東急)による開発の手が入り、土地買収が盛んになり、県営や市営の住宅・団地が建ちはじめていく。
野川第一土地区画整理事業
東急が進めた多摩田園都市計画の中で、最初に開発を行うモデル地区として当地が選ばれ、事業が開始した[6]。モデルケースとして早期に結果を挙げ、残りの事業地買収に弾みをつけるという狙いがあったので、東急が比較的まとまった土地を確保していた当地が選ばれ、また事業面積は19.8 haと、あえて小さなものとされた[6]。
ただ、このような組合施行の土地区画整理事業自体が川崎市で初めてであったこと、首都圏整備計画におけるグリーンベルト構想の存在、さらには反対する一部地主の存在などもあり、野川第一土地区画整理組合の発起人会(1957年5月)から設立認可(1959年5月)までに2年という期間を要することとなった[7]。
事業の法的な施行者は土地区画整理組合であるものの、東急が多摩田園都市の一体開発を進めるために、組合が行うべき一切の業務を東急が代行し、その代行料として保留地を受け取るという、業務代行土地区画整理事業として行われ[8]、1961年10月の換地処分によって完結した[9]。完成と前後して分譲が行われたが、モデルケースという事情もあってか東急の縁故者向けに別枠で募集が行われたほか、社宅も誘致された[10]。
住居表示の実施
2015年度から住居表示の実施が検討されており、2018年度から2020年度にかけて、町内全区域で実施された。住居表示の実施後はすべて別の町名になった[11]。
なお、分割された町名は、以下の通りである。
沿革
- 1531年 - 影向寺十二神将のうち一体の頭部内墨書銘に、「武州野河郷加□谷村住侶、享禄四辛卯」とある。
- 1559年 - 『小田原衆所領役帳』に次の記載がある。「布施弾正左衛門 15貫300文 小机野川地頭方」、「後藤惣次郎 16貫303文 小机野川」。
- 1590年 - 徳川家康江戸入部、関東は徳川家の支配地となる。江戸初期、近世郷村制成立。野川郷がいくつかの小村に分立。両村の境界は複雑で、明確に分別しがたいため幕府は一緒の形で扱っている。
- 1649年 - 上野川村は増上寺御霊屋料の村となる。
- 1667年 - 下野川村は旗本大岡氏の知行所となる。
- 1745年 - 野川新田の開拓なり、天領に組み入れられる。
- 1834年 - 『天保郷帳』によれば、「上野川村 高537石2斗余、下野川村 高302石3斗余」である。
- 1868年 - 明治維新により神奈川県管轄となる。『旧高旧領取調帳』の記載は次のと取りである。「天領 41石6斗余、大岡氏知行所 160石9斗余、影向寺領 5石、西蔵寺除地 3石4斗、増上寺領(上野川村)498石7斗余、同じく増上寺領(下野川村)133石4斗余」。
- 1874年 - 大区小区制施行。上野川村・下野川村ともに5大区5小区に属す。
- 1875年 - 上野川村・下野川村が合併して野川村となる。
- 1878年 - 郡区町村編制法施行。大区小区制廃止。橘樹郡野川村となる。
- 1889年 - 市制町村制施行、野川・梶ヶ谷・馬絹・土橋・有馬の5村が統合して宮前村誕生。野川は大字となる。
- 1938年 - 宮前村が川崎市に編入。川崎市野川となる。
- 1972年 - 川崎市が区制施行、高津区野川となる。
- 1982年 - 高津区から宮前区が分区。基本的に第三京浜道路より西側の部分が宮前区に編入される。
- 2018年11月5日 - 第三京浜道路及びその東側で住居表示が実施され、以下の町丁が新設される[12][13]。
- 高津区
- 北野川 - 野川字東耕地の一部
- 東野川1丁目 - 野川字中耕地の一部
- 東野川2丁目 - 野川字中耕地、南耕地のそれぞれ一部
- 宮前区
- 野川本町3丁目 - 野川字東耕地の一部
- 高津区
- 2019年10月15日 - 宮前区野川本町1丁目・2丁目、宮前区西野川1丁目・2丁目・3丁目を新設[1]。
- 2020年11月9日 - 宮前区南野川1丁目・2丁目・3丁目、宮前区野川台1丁目・2丁目・3丁目を新設。全区域の住居表示が完了。
世帯数と人口
2017年(平成29年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
区 | 大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|---|
高津区 | 野川 | 2,067世帯 | 4,623人 |
宮前区 | 野川 | 12,251世帯 | 28,425人 |
計 | 14,318世帯 | 33,048人 |
- ^ a b “町丁別面積(総務省統計局「地図で見る統計(統計GIS)」の数値)”. 川崎市 (2015年10月26日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ a b “町丁別世帯数・人口”. 川崎市 (2018年1月25日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年2月15日閲覧。
- ^ しかし、地名が平凡なためか、近年建てられたマンションには、知名度の高い鷺沼や宮前平を冠した建物が多い。中には、「●●鷺沼」の隣に「●●宮前平」が建っている例もある。
- ^ “不動産ライブラリ 国土交通省地価公示(標準地) 宮前-13”. 2024年4月6日閲覧。
- ^ a b 「東急多摩田園都市開発50年史」第3章第1節「市街地建設計画の策定」
- ^ 「東急多摩田園都市開発50年史」第3章第1節「初めての組合設立」
- ^ 「東急多摩田園都市開発50年史」第3章第1節「一括代行方式の採用」
- ^ 「東急多摩田園都市開発50年史」第3章第1節「事業実施の経過」
- ^ 「東急多摩田園都市開発50年史」第3章第1節「野川第一地区の分譲と諸施設の誘致」
- ^ “野川地区住居表示についての「お知らせ」【平成29年6月】” (PDF). 野川地区住居表示検討委員会 (2017年6月). 2017年8月10日閲覧。
- ^ “平成30年度の住居表示実施地区”. 川崎市. 2018年11月1日閲覧。
- ^ “住居表示新旧対照案内図” (PDF). 川崎市. 2018年11月1日閲覧。
- ^ “川崎市立小学校の通学区域”. 川崎市 (2015年4月1日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ “川崎市立中学校の通学区域”. 川崎市 (2015年4月1日). 2018年2月15日閲覧。
- ^ 現在は 野川台1丁目3013番11(住居表示は野川台1丁目1-12-8)である。
- 野川 (川崎市)のページへのリンク