田口八重子
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子どもたち
田口八重子の子どもたちは彼女の兄弟たちによって日本で育てられた[49]。彼女の息子の耕一郎は、田口の長兄の飯塚繁雄夫妻によって育てられ、娘(耕一郎の姉)は元夫との面会を禁じられたのち、田口の二番目の姉に引き取られた[49][50]。彼らが成人すると、飯塚繁雄は彼らに八重子の子どもたちであることを伝えた[49][51]。2002年、兄の繁雄が北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(通称「家族会」)に参画し、横田めぐみの両親らと活動をともにするようになった[14]。彼女の息子は、東京の情報技術会社のエンジニアであり、2004年、北朝鮮による彼女の死の主張は「ナンセンス」だと公に主張した[51]。兄・繁雄は2008年、横田滋の後任として「家族会」の代表に就任した[14]。
2008年、飯塚耕一郎は以下のように語っている。
ちょうど30年前、母と引き離されたとき、私はまだ1歳と4か月であった。だから、私は母のぬくもりも声も匂いも覚えていない。私たちは普通の家族にもどりたい、そして過去30年の間失われた時の一部を取り戻したい[52]。
金賢姫は2009年3月に田口八重子の兄繁雄、長男耕一郎と韓国の釜山広域市で面会した[49]。金賢姫は飯塚耕一郎に「似ていますね、お母さんと」と声をかけ、耕一郎は「お姉ちゃんも似ているんですよ」と答えた[49]。金賢姫はこのとき、終始一貫して耕一郎に「希望を持ちなさい」「お母さん、生きていますよ」と語り続けた[49][注釈 11]。金賢姫は「いつも息子に会いたいと言っていた」という話を、直接耕一郎に伝えた[49]。耕一郎は「母が確かに生きているという証拠を受け取りました。私は私たちの救助活動に新たな希望を持っています」と語った。
注釈
- ^ 当時の店の管理者は、年齢の割に大人っぽい雰囲気で「ばかじゃない」が口癖の聞き上手、多くの従業員のなかでも有望株でまじめな子という印象だったという[12]。
- ^ これを決めたのは、繁雄や八重子たちの母ハナであった。ハナは八重子の子どもたちが肩身のせまい思いをしないよう、裁判所で正式に養子縁組もおこなわせた[7]。繁雄の3人の子はそれぞれ9歳、8歳、7歳になっていたが、繁雄は子どもたちに事情を話したうえで大きくなるまでずっと内緒にしてくれるよう頼み、妻とも八重子の子を自分の子どもたちと分け隔てなく育てようと話し合った[7]。
- ^ 李京雨は、西新井事件や新潟県アベック拉致事件の主犯であるチェ・スンチョルの配下としてはたらき、大韓航空機爆破事件の実行犯のひとり金勝一(バーレーン国際空港で事情聴取中に服毒自殺)の日本人名義の不正旅券入手にも関与した人物であった[15]。
- ^ 朝鮮総連副議長でもある大物商工人は、偽装転向して多数の偽造旅券を隠し持っていた北朝鮮工作員と海岸での拉致犯罪を補助する「沿岸徘徊人」の2人を率いており、1990年5月、警察部内より大物商工人の家宅捜索令状と偽造旅券を保有する工作員の逮捕令状が出されていたが、訪朝を控えた金丸信自民党副総裁の圧力によって直前に捜査が中止させられたという情報がある[16]。
- ^ 西岡力は1991年、この夫婦は1978年7月から8月にかけて相次いで動機のない失踪をした福井県の地村保志・浜本富貴恵、新潟県の蓮池薫・奥土祐木子、鹿児島県の市川修一・増元るみ子の3カップルの中のいずれかである可能性を指摘している(西岡力「北朝鮮が拉致した日本人」『諸君!』1991年3月号)[23]。
- ^ 1991年の手記や1995年の『忘れられない女(ひと)―李恩恵先生との二十カ月』で田口八重子(李恩恵)のことを書いた金賢姫が、なぜそこでは横田めぐみや金淑姫に関する証言を隠していたかについては、彼女は自分が体験したことならばともかく金淑姫から聞いた話を公開すると、淑姫が責任を問われ、北朝鮮当局から処罰されてしまうのではないかと考えたためであったと答えている[29]。
- ^ 金賢姫は、「李恩恵」の誕生日をはっきりと記憶しており、それは田口八重子と一致した[30]。その他、人を送るとき「大きく手を振る」、言葉づかいでは「やっぱし」「ばかみたい」を多用する、職業では、「学生時代に食堂でアルバイトをした」などの項目も一致した[30]。
- ^ 1977年、北朝鮮の工作員たちに対し「マグジャビ」(手当たり次第)に外国人を誘拐するよう命じたのは金正日その人であった[35]。また、1980年の辛光洙(原敕晁拉致実行犯)の2度目の日本浸透工作に際し、辛に対して直接「日本人を拉致して北に連行し、日本人として完全に変身した後、対韓国工作活動を続けよ」と指示を下したのも金正日であった[36]。
- ^ チャンは死刑、キムは15年の長期教化刑に処せられたという[34]。在日朝鮮人で帰還事業によって北に渡り、工作員となった青山健煕の亡命後の証言によれば、この2人は対外情報調査部の副部長であって、作戦部副部長ではなく、1997年8月の「調査部事件」で粛清されたのであって拉致問題とはまったく関係がないという[37]。また、対外情報調査部は工作船を有しておらず、工作船を用いた拉致事件は労働党作戦部によるものであり、したがって、日本人拉致問題の責任を負うべきは、拉致の指示を出した金正日自身以外には、作戦部長だった呉克烈だったはずだと説明している[34]。
- ^ 原敕晁の「入国経緯」の説明では、彼の連行時間は「1980年6月17日」、連行場所を「宮崎県宮崎市青島海岸」としている[41]。実際には、彼は辛光洙や金吉旭によって拉致され、辛光洙もそのことを韓国警察に自供しているが、ここでの「情報」は、あくまでも原敕晁の意思であることを主張している[41][42]。
- ^ 金賢姫は1987年1月、ポルトガル領マカオから帰ってきた後、2月から10月にかけて招待所で生活していたが、2月か3月頃、運転手から田口八重子がどこかに連れて行かれたが、それがどこなのか知らないという話を聞いた[47]。招待所の運転手が知らない場所なのだから招待所以外の場所だろうとは考えられるが、彼女が死亡したとは誰からも聞いたことがない[47]。だから、田口八重子は生きているはずだというのが、金賢姫の考えである[47]。なお、1986年に北朝鮮は1人暮らしの拉致被害者を結婚させたと聞いたので、八重子もどこかに行って結婚したのだろうと金賢姫は思っていたそうである[47]。
出典
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- ^ scramble749『 [Korean Air bomb blast incident - men capturing Kim & Hime]』2010年10月15日。https://www.youtube.com/watch?v=q5W5PUxrGuo。
- ^ “株式会社双葉社 -コミック文庫『母が拉致された時 僕はまだ一歳だった』”. www.futabasha.co.jp. 2021年12月10日閲覧。
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