水口洋次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/09 04:25 UTC 版)
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名前 | ||||||
カタカナ | ミズグチ ヨウジ | |||||
ラテン文字 | MIZUGUCHI Yoji | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1944年7月20日 大日本帝国, 広島県広島市[1] | |||||
没年月日 |
日本, 鳥取県米子市 | 2022年4月10日(77歳没)|||||
身長 | 162㎝ | |||||
ユース | ||||||
中央大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1967-1971 | ヤンマー | 31 | (6) | |||
松下電器 | ||||||
監督歴 | ||||||
1973 | 日本ユース代表 | |||||
1978-1979 | ヤンマークラブ | |||||
1980-1991 | 松下電器 | |||||
2000-2002 | 大阪国体成年男子 | |||||
2004-2006 | 神戸国際大学 | |||||
2007 | ガイナーレ鳥取 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ガンバ大阪の前身・松下電器産業サッカー部の創設者で[1][2][3][4]、ガンバ大阪の発足に向けた立ち上げに携わり[2]、同クラブの基礎作りに尽力した[1][2]。
経歴
広島県広島市出身[1]。広島国泰寺高校から[5]、中央大学法学部政治学科を経て1967年、ヤンマーディーゼル株式会社入社[1]。小柄ながらボール扱いのうまさは日本最高ともいわれ[6]、同社サッカー部の主力選手として活躍した[3]。同い年で同期就職で親友の釜本邦茂のデビュー初得点のアシストを決めている。しかし当時監督だった鬼武健二の薦めにより、入社4年目で選手を引退しコーチに就任。鬼武と共にヤンマーの黄金時代を築く[3]。ヨーロッパの技術研修を経て[7]、日本代表20歳以下チームの監督等も歴任した。
その後、ヤンマーサッカー部の人員増加に伴って設立されたサテライト相当の組織「ヤンマークラブ」に転籍、監督に就任し、日本サッカーリーグ2部でチームの指揮をとった。しかし就任2年目の1979年にサッカー部の一本化により廃部。奈良県に松下電器産業サッカー部(現・ガンバ大阪)創部の動きが起こり、ヤンマーを辞めた水口が中心となり[1]、水口はヤンマークラブ所属選手の多くとともに松下電器産業に移籍[8]、強敵のいない奈良県社会人2部リーグ加入に向け[8]、0の状態から発足の準備を始め[1][9]、1980年、松下電器産業サッカー部を創部し初代監督に就任した[1][3][5][8]。設立当初は選手の人数がそろわず選手兼任監督として登録もした[1]。0の状況からチームを育て上げ、以降11年の長きにわたり指揮を執り[2][9]、1990年の第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に導いた[1][3]。
松下電器の社内でJリーグ創設の機運が高まり、動きが本格化してきたのは1990年秋のことだったが[10]、当時の関西にはヤンマーという圧倒的実績を持つ名門があり、田辺製薬や大阪ガスといった名門が下位カテゴリーに落ち、社内的にもJリーグ参入を不安視する声も大きかったが[10]、天皇杯三連覇を狙った日産自動車に粘り強く戦って優勝したことは、Jリーグ参入に向け大きな後押しになった[10]。
1991年に1993年のJリーグ発足に向けS級ライセンスを取得していなかったため監督を勇退(後任は前出の釜本)。その後、松下電器サッカー部に設けられたプロ化準備室にてJリーグ発足に向けたチームの立ち上げに携わり[2]、プロ化以降はガンバ大阪取締役強化部長、普及部長として長きに渡りクラブの発展に尽力し、名門クラブの基礎を創った[1][2][3][11]。1995年にS級ライセンスを取得。1999年には大阪サッカー指導者協会会長に就任。2002年に松下電器を定年退社、同時にガンバ大阪取締役も辞任する。
2002年に行われたよさこい高知国体では大阪府選抜(成年の部)を率いて優勝[11]。2004年、関西学生サッカーリーグの神戸国際大学サッカー部の監督として本格的に指導者復帰を果たした[5]。
2007年、Jリーグ参入を目指すガイナーレ鳥取(当時日本フットボールリーグ)の監督に就任[1][4]。ハードトレーニングによるチーム全体の強化を図ったが、同年8月、成績不振を理由に辞任した。鳥取の監督を辞任後も鳥取県で暮らしていた[1]。
その後、鳥取県米子市で闘病生活を送っていたが、2022年4月10日に死去した[1][2]。
所属クラブ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “G大阪前身松下電器サッカー部初代監督の水口洋次氏死去”. 日刊スポーツ. (2022年4月12日). オリジナルの2022年4月12日時点におけるアーカイブ。 2022年4月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g “松下電器産業サッカー部 初代監督 水口 洋次氏 ご逝去のお知らせ” (プレスリリース), ガンバ大阪, (2022年4月12日), オリジナルの2022年4月12日時点におけるアーカイブ。 2022年4月12日閲覧。クラブヒストリー 1980年代 | ガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ a b c d e f 【FCWC特集】アジア代表 G大阪のクラブの歴史を紹介!Vol.1(Archive)
- ^ a b 2007年シーズン スタッフについて-SC鳥取
- ^ a b c 昭和38年卒 | mysite - 鯉城同窓会公式ホームページ、水口洋次さんです。元ガイナーレ監督です。、平成 24年 6月二木会 - SportsOnline
- ^ 『サッカーマガジン』1967年5月12日号、104頁
- ^ ガンバ大阪に見られるヨーロッパサッカーの背番号 - SPAIA
- ^ a b c 邨田直人 (2019年5月21日). “【サッカーコラム】始まりは「ヤンマー」から、大阪ダービーの源流とこれから”. サンケイスポーツ. オリジナルの2022年3月5日時点におけるアーカイブ。 2022年10月9日閲覧。
- ^ a b No.643 JFLに異変あり | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト
- ^ a b c 大澤謙一郎 (2022年1月3日). “ガンバ大阪勤続歴30年。裏方としてクラブを支え続ける男のこれまでとこれから 「お客さんが少ないので、練習試合ですか?と聞かれたこともあった」<2021年間ベスト10>”. VICTORY. 2022年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月9日閲覧。
- ^ a b SC鳥取新監督に水口氏 元全日本ユース監督 - 新日本海新聞(Archive)
固有名詞の分類
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