岡村新太郎とは? わかりやすく解説

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岡村新太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 22:44 UTC 版)

岡村 新太郎
名前
カタカナ オカムラ シンタロウ
ラテン文字 OKAMURA, Shintaroh
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1948-04-21) 1948年4月21日
出身地 静岡県藤枝市
没年月日 (2013-04-26) 2013年4月26日(65歳没)
身長 169cm
体重 62kg
選手情報
ポジション MF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。

人物

静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校法政大学日本鋼管でプレイした。

静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会全国高等学校総合体育大会第21回国民体育大会大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた[1][2]

高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした[1]

大学卒業後、1971年に日本鋼管へ入社して同社サッカー部にてプレーするも、慢性腎炎を患った為に思うようにプレイ出来ずに僅か3年で現役を引退し、その後は日本鋼管の社員として社業に勤しむ[1]

指導者として日本鋼管サッカー部のコーチに就いた後、1981年に日本男子ユース代表監督に就任し、アンダー世代の指導に当たる。

1981年4月に森孝慈サッカー日本代表監督に就任すると、岡村もコーチとして代表チームのスタッフに入り、1986 FIFAワールドカップ・アジア予選を始めとする森ジャパンの激闘を側面から支えた[1]。そして岡村は代表監督が森から石井義信に交代した後も引き続き代表コーチを務め、1988年ソウルオリンピックアジア予選まで日本代表を指導した[1]

代表コーチを退いた後は日本鋼管に勤務しながらテレビ・ラジオのサッカー解説を務め[3]、2005年から2013年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)公式戦のマッチコミッショナーを務め[4]日本サッカー協会(JFA)公式戦である天皇杯全日本サッカー選手権大会でもマッチコミッショナーを務めるなど[5]サッカーへの情熱は衰えることはなかった。

2013年4月26日、心不全のために逝去[6]。65歳没。

脚注

  1. ^ a b c d e 元日本代表コーチ・岡村氏急逝から3年…今こそ“歴史”に光を スポーツニッポン 2016年5月9日
  2. ^ 強い! 高校サッカー 静岡県藤枝市公式サイト
  3. ^ SBSラジオ アウェイ中継のお知らせ 清水エスパルス公式サイト 2008年9月15日
  4. ^ 2005年Jリーグマッチコミッショナー決定 日本プロサッカーリーグ 2005年1月25日
  5. ^ 第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会4回戦【76】 鹿島アントラーズ 対 ジュビロ磐田 (PDF) 日本サッカー協会 2012年12月15日付
  6. ^ 訃報:岡村新太郎さん 65歳=元サッカー日本代表コーチ 毎日新聞 2013年4月27日(Internet archives)



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