柴田政人 柴田政人の概要

柴田政人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 14:47 UTC 版)

柴田政人
基本情報
国籍 日本
出身地 青森県上北郡上北町
(現・東北町
生年月日 (1948-08-19) 1948年8月19日(75歳)
身長 155 cm
体重 51 kg
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会 (JRA)
所属厩舎 高松三太(1965年 - 1979年)
境勝太郎(1979年)
高松邦男(1979年 - 引退)
初免許年 1967年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 1995年2月28日
1994年4月24日最終騎乗)
重賞勝利 89勝
G1級勝利 15勝
通算勝利 11728戦1767勝
調教師情報
初免許年 1995年(1996年開業)
調教師引退日 2019年2月28日
通算勝利 4245戦191勝(中央)
106戦12勝(地方)
経歴
所属 美浦トレーニングセンター
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栗東所属の元調教師・柴田政見は実兄、元騎手の柴田利秋は実弟。叔父に元調教師の柴田不二男、甥に騎手の柴田善臣(一般人である長兄の実子)。プロ野球埼玉西武ライオンズに所属した柴田博之も甥(利秋の実子)に当たる。

経歴

少年期

1948年8月19日、青森県上北郡上北町に米作兼馬産農家の三男として生まれる。家業の関係から幼少期より馬に親しみ、また実家が近所であった関係から佐々木竹見[注 1]と交友があったという[1]

騎手として桜花賞などを制していた叔父・不二男や、不二男の元で騎手となった次兄・政見に続く形で、自身も自然と騎手を志したが、騎手養成課程の受験を前に、落馬事故を恐れた両親からの激しい反対を受ける。これに対して政人は「政見は許したのに、なぜ自分はだめなのか」と抵抗、最終的に両親が折れ、半ば放逐される形で東京都馬事公苑の騎手養成長期課程に入った[2][注 2]

当年騎手課程に入った第15期生には、後に9年連続のリーディングジョッキーとなり「天才」と称される福永洋一、中央競馬通算最多勝記録を樹立する岡部幸雄東京優駿(日本ダービー)天皇賞(秋)を制する伊藤正徳らがおり、後に柴田も含め「馬事公苑花の15期生」と称された。当世代の教官を務めた木村義衛によれば、福永、岡部は先天的に騎手向きの「達者型」、柴田は努力で上達する「上手型」であったという[3]

騎手時代

1960-1970年代

3年の修習期間を経て、中山競馬場・白井分場に厩舎を構える高松三太の門下生となる。高松も開業2年目という新進調教師だった。卒業年次は騎手免許試験に落第し、1年の浪人を経た1967年に免許を取得。同年3月に騎手デビューを果たし、5月に初勝利を挙げた。

初年度は騎乗数も少なく8勝に終わったが、2年目には23勝を挙げた。4年目に入った1969年1月、厩舎期待馬のアローエクスプレス京成杯に勝利し、重賞初勝利を挙げる。同馬は当年のクラシック戦線における関東の最有力馬と目されていたが、若い柴田の騎乗に不安を抱いた馬主伊達秀和の意向で、クラシック初戦の皐月賞を前に加賀武見へ乗り替わりとなった[4]。これは騎乗馬確保もままならない若手騎手の苦難を示す例として、また柴田の飛躍の原動力となったエピソードとして後年まで語られている(アローエクスプレス#柴田政人とアローエクスプレスも参照)。

1971年には35勝を挙げ、全国ランキングで初のベスト10入りを果たす。しかしこの成績に慢心し[5]、翌年は18勝に終わった。これを受けた翌1973年、高松より「馬を集めてやるから、1ヶ月だけでも関東リーディングを獲ってみろ」と諭され奮起[6]、これに応えて61勝を挙げ、初の関東リーディングジョッキーとなった。当年高松も48勝を挙げ、関東のリーディングトレーナーとなる。この頃より高松厩舎に有力馬を預ける馬主が増加し、これに伴い厩舎の主戦である柴田の成績も上位で安定していった[7]。以後もしばらく八大競走には恵まれなかったが、デビュー12年目の1978年、厩舎所属馬のファンタストで皐月賞に優勝し、八大競走初制覇を果たす。同馬はアローエクスプレスと同じく伊達秀和の所有馬であり、アローの甥に当たった。

しかし同年8月、高松が肝臓癌に冒されていることが判明し、翌1979年1月に死去。これに伴い高松の親友であった境勝太郎厩舎に一時移籍し、3月に三太の実子・高松邦男の厩舎開業と共に再移籍した。三太と柴田の強固な結び付きは競馬界で広く知られており、柴田は「自分の親が死んだとしても、これほどの虚脱感にとらわれるかどうか」と嘆いた[8]。また、同年3月には同期生の親友・福永洋一が競走中に落馬し、騎手生命を絶たれる事態にも遭遇している。

1980年代

1980年、天皇賞(秋)で牝馬プリテイキャストに騎乗して史上に残る大逃げを打ち、11頭立て8番人気での優勝という波乱を起こした。1983年にはキョウエイプロミスで天皇賞(秋)2勝目を挙げる。同馬とは続く国際招待競走・ジャパンカップでもスタネーラの2着に入線し、同競走での日本馬初連対を果たした。しかしその6日後の12月3日、中山競馬第4競走での騎乗中に内埒に衝突し、右足小指、薬指を切断、小指断裂という重傷を負う。8時間の手術の末に小指は再度縫合されたが、薬指は失われた[9]。3ヶ月の休養後に復帰。騎座に重要な足指の怪我で影響も懸念されたが、前年を上回る76勝を挙げて健在を示した。

1985年にはミホシンザンに騎乗して皐月賞と菊花賞を制覇。当年101勝を挙げ、自身初の年間100勝を達成。翌1986年4月6日には、史上8人目の通算1000勝も達成した。翌年にはミホシンザンで天皇賞(春)にも優勝。同馬の引退に際しては「これからはミホシンザンの柴田と呼んで下さい」と語った。また同年、自身初の国外騎乗(オーストラリア)を行い、勝利を挙げている。

1988年には第8回ジャパンカップシェイディハイツに騎乗し、同レースでは初めて日本国外調教馬に日本の騎手が騎乗する記録を作った。また同年には年間132勝を挙げ、15期生として福永洋一、岡部幸雄に次ぐ全国リーディングジョッキーとなった。以後、関東では柴田と岡部、当時の通算最多勝騎手・増沢末夫が毎年リーディングを争い、1990年代にかけて「ジョッキーを目指してくる人は、目標は岡部君か柴田君というケースが圧倒的[10]」(小島太)という時代が訪れた。

1990年代 - 引退

1989年から夏場にイギリスフランスでスポット騎乗を行い、1990年にはアサティスキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに騎乗、3着という成績を残した。その後アメリカでも騎乗し、この頃より若手騎手に対して積極的に欧米に出て厳しいレースを実体験し、その技術を採り入れるよう進言を始めた[11]

翌1991年6月9日と7月7日には、それぞれ通算1万回騎乗(史上4人目)と1500勝(同3人目)を達成。1993年3月には日本騎手クラブ会長を務めていた郷原洋行の引退に伴い、その後任を務める。ラフプレーに伴う落馬事故による騎手の落命・引退に数々接してきた経験から、会長として特にレースにおける安全確保と、騎手のフェアプレー徹底の意識浸透に力を注いだ[12]。また柴田自身の要請により副会長は岡部が務め、後に会長職も引き継がれた。

騎手会長就任から2カ月余りを経た5月30日、柴田はウイニングチケットに騎乗して長年の目標としていた東京優駿を制覇。デビュー24年目・通算19回目の騎乗でダービー初勝利を果たした。ウイニングランの最中には約17万人の観客から「政人」コールでの祝福を受け、競走後のインタビューにおいては、「この勝利を誰に伝えたいか」との質問に対し「世界中のホースマンに、第60回日本ダービーを勝った柴田政人ですと伝えたい」との言葉を残した[13][注 3]。当年、1988年以来の三桁勝利となる113勝、さらに年間616回の騎乗で戒告・減点なしという成績を残し、野平祐二以来39年ぶりの特別模範騎手賞と、ユネスコ日本フェアプレー賞実行賞を受賞した。

翌1994年は前年からの好調を維持し、年頭からランキングのトップを占め続けた。しかし4月24日、東京競馬第6競走において騎乗馬コクサイファーストが骨折・転倒し、柴田も頭から馬場に叩き付けられた[14]。この事故で頸髄不全損傷ならびに左腕神経叢損傷という重傷を負い、休養を余儀なくされる。リハビリの後、8月11日には調教に騎乗する程度まで回復を見せたが、レースにおいて以前通りの騎乗ができないとの理由で、同年9月6日に引退を表明[15]。翌1995年2月16日に調教師試験に合格し、同年2月26日を以て騎手を引退。中山競馬場にて引退式が行われた。

調教師時代

1996年3月3日、調教師として管理馬初出走を迎え、同月9日にオンワードモンローで初勝利を挙げた。過去15勝を三度記録しているが、重賞での勝利はなかった。厩舎所属騎手に石橋脩がいる。

2014年、JRA60周年事業の一環としてホースマンの殿堂にあたる調教師・騎手顕彰者制度において、騎手部門で選出された[16]

2019年2月28日付けで定年の為、調教師を引退した。

騎手としての特徴

騎乗の特長

騎手時代「剛腕」と呼ばれた郷原洋行は、若手時代の柴田を見た際に「腰の強い乗り役がいる」と感じたといい[6]、特に強健な下半身を使って馬を追う技術は高く評価された。騎手顕彰者野平祐二は、郷原引退後の「追える騎手」の筆頭として柴田の名を挙げており[17]、また養成所で一期上の小島太は「追わせたらヨーロッパの一流ジョッキーにも負けない物を持っていると思う。馬の支点を置いて、腰を使って追う技術は大したものだ。道中も常にうまいし、勝負所で馬群を縫っていくテクニックには独特のものがある。人間的にも素晴らしいものを持っているし、欠点がないという感じだ」と高い評価を送っている[18]。レース運びの面でも、特に3000m以上の長距離競走におけるペース勘とスパートのタイミングの妙は「天才」と称された福永洋一以上とも評され、「長距離の魔術師」と呼ばれた[19]。重賞89勝のうち14勝を長距離競走で挙げている[注 4]。長距離競走に強い理由について、柴田自身は「駆け引きができるからね。短距離だとヨーイ、ドンで行ったきりだもんね。長短どちらの距離でも冷静さは必要だけれど、特に長距離はペース、展開、相手の騎手や馬との駆け引き、馬をだましだましどう乗るか、など考える要素がある」と語っている[20]

騎乗馬の選択について

柴田は騎手時代を通じて「厩舎社会の義理」を非常に重視したことで知られ、複数の騎乗馬の選択に際しては、馬の能力よりも過去の恩義や人間関係を優先し、また他騎手の騎乗馬を奪う形での乗り替わりを嫌った。ビジネスライクに徹して騎乗馬を選択していれば通算勝利数は大幅に増えていたとも考えられ、このことは以下の様な人物評にも現れている。

  • 競馬評論家の井崎脩五郎は、柴田の通算1700勝達成の記念パーティーで挨拶に立った際に、「柴田さん、もしあなたが人の悪い騎手だったら、今日は2500勝達成を祝っていたことでしょう」と好意的な洒落を込めて述べている[21]
  • 先輩騎手である野平祐二は、柴田を「過去に世話になった義理とかを守ってばかりいる。そして走らない馬、ダメな馬にばかり跨っている」「妙な男」と評した[22]
  • 所属厩舎の調教師であり、柴田と親友でもあった高松邦男は、「自分が割を食ってもズッコケても、他人を押しのけてまで乗り替わろうとしない。見事すぎるほど、意地っ張りで頑固な男です」と語っている[23]

しかしこの様な一面は関係者からは特に評価され、現役時代はすでにNo.1ジョッキーの呼び声のあった岡部幸雄と関東の双璧として称えられていた。


注釈

  1. ^ 騎手として中央・地方を通じての通算最多勝利記録保持者(7151勝)。
  2. ^ この時、父親から「一人前にならなかったら絶対に家の敷居は跨がせない」と釘を刺され、以後柴田は8年近く実家に帰らなかった[2]
  3. ^ 2019年4月14日の「BSイレブン競馬中継」にゲスト出演した柴田は、海外騎乗の度によく「ダービー勝ってるのか」と聞かれる、競馬イコールダービーだと世界のホースマンが思っている、(海外に)行く度にダービー勝ってますかと言われる、という趣旨のコメントをしており、それらを踏まえて自然と「世界のホースマンに」という言葉になったと述べている。
  4. ^ ステイヤーズステークス5勝、ダイヤモンドステークス5勝、菊花賞1勝、天皇賞(春)1勝、天皇賞(秋)2勝。

出典

  1. ^ 大寺(1994)p.23
  2. ^ a b 木村(1994)pp.170-171
  3. ^ 大寺(1994)p.33
  4. ^ 大寺(1996)p.56
  5. ^ 木村(1997)p.210
  6. ^ a b 木村(1997)p.211
  7. ^ 大寺(1996)pp.73-74
  8. ^ 大寺(1996)p.104
  9. ^ 木村(1997)pp.217-219
  10. ^ 小島(1993)p.73
  11. ^ 『優駿』1991年10月号
  12. ^ 大寺(1996)p.94
  13. ^ a b c 『優駿』1999年6月号、p.114
  14. ^ 大寺(1996)p.18
  15. ^ 木村(1998)pp.150-151
  16. ^ a b 『優駿』2014年6月号、p.3
  17. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.79
  18. ^ 小島(1993)p.75
  19. ^ 大寺(1996)pp.75-76
  20. ^ 木村(1994)p.167
  21. ^ 木村(1998)p.149
  22. ^ 木村(1998)p.147
  23. ^ 木村(1998)pp.147-148
  24. ^ 『優駿』2002年6月号、p.28
  25. ^ 木村(1994)p.245
  26. ^ 『優駿』2014年6月号、pp.50-51
  27. ^ 『忘れられない名馬100』p.23
  28. ^ a b 大寺(1994)p.188
  29. ^ 大寺(1996)p.194
  30. ^ 木村(1994)p.160
  31. ^ 岡部(2006)p.161
  32. ^ a b 『競馬騎手読本』p.31
  33. ^ 木村(1994)p.249
  34. ^ 『優駿』2005年5月号、p.55
  35. ^ 『Sports Graphic Number ベスト・セレクション(3)』pp.58-60
  36. ^ 『優駿』1991年10月号 p.83
  37. ^ 『Sports Graphic Number ベスト・セレクション(3)』p.60
  38. ^ 『優駿』1991年10月号、p.84
  39. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.75
  40. ^ 『優駿』2002年9月号、p.69
  41. ^ 藤田伸二村本善之武豊的場均河内洋柴田善臣に次ぐ


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