松本良順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:09 UTC 版)
栄典
- 位階
- 1872年1月23日(明治4年12月14日) - 従五位
- 1873年(明治6年)5月25日 - 正五位
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6]
- 1893年(明治26年)7月19日 - 正四位
- 1905年(明治38年)3月2日 - 従三位
- 勲章等
親族
- 実父・佐藤泰然
- 養父・松本良甫
- 長男・松本銈太郎 - クーンラート・ハラタマに化学を学び、ユトレヒト大学、ベルリン大学に留学したが、29歳で病死[8]
- 男・松本鵰 - ミュンヘン大学、フライブルク大学に留学し、1893年に帰国後陸軍三等軍医に任じられたが、同年馬入川で船が転覆し25歳で溺死[9][10][11]
- 八男 松本本松(医学博士、貴族院男爵議員)[12]
- 実弟 林董
- 義兄(佐藤家養嫡子)佐藤尚中、その子に佐藤百太郎
- 義兄(実姉の夫)林洞海、その子に林研海
- 義弟(実妹の夫)山内作左衛門
- 遠縁に榎本武揚、森鷗外、森電三などがいる。
その他
- 親交のあった近藤勇と土方歳三の供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立した。
- 長野県湯田中温泉において、温泉入浴法を示し、湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えた。現在の湯田中大湯には現在も当時の温泉入浴法が掲げられている。
- 海水浴場開設論を説き、神奈川県大磯町に大磯駅を開業する契機を作り[13]、駅前を別荘地として開発した。
- 牛乳の摂取や海水浴などの普及も行う。
- 2024年現在、日本で唯一「正露丸」ではなく「征」の字を使用している日本医薬品製造社製の征露丸に当人の顔写真がロゴとして使用されている。
- 西洋医学所の頭取であった頃、伊東玄朴を弾劾し失脚に追い込んでいる。
関連作品
- 『JIN-仁- (テレビドラマ)』(TBSテレビ、演:奥田達士)
- ^ 日本大百科全書
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 『官報』第5645号、明治35年5月2日。
- ^ 「大医松本順逝く」明治40年3月13日付萬朝報『新聞集成明治編年史』第十三巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)285頁
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 松本銈太郎(まつもとけいたろう)/松本銈谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 森川潤「ドイツ医学の受容過程-ミュンヘン大学留学生を中心として」『教育学研究』第52巻第4号、日本教育学会、1985年、374-384頁、doi:10.11555/kyoiku1932.52.374、ISSN 0387-3161、NAID 130003563724。
- ^ 金田昌司「明治期ドイツ留学生,橋本春(Hashimoto Hasime)の生涯 : 鷗外記す「今其の人を見る倜儻愛す可し」と (川島康男教授古稀記念論文集)」(PDF)『経済学論纂』第52巻第4号、中央大学、2012年3月、45-63頁、ISSN 0453-4778、NAID 110009494812。
- ^ 松本鵰氏逝く中外医事新報. (327)(日本医史学会, 1893-11)
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、649頁。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、560頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
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