日本競輪選手会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 18:29 UTC 版)
選手会支部
2024年1月時点の支部と支部長[8]。
支部名 | 支部長名 |
---|---|
北海道 | 明田春喜 |
宮城 | 関戸努 |
茨城 | 須賀和彦 |
群馬 | 甲斐康昭 |
埼玉 | 白岩大助 |
新潟 | 佐藤政利 |
岐阜 | 吉村和之 |
三重 | 小西誠也 |
福井 | 鷲田幸司 |
兵庫 | 黒木誠一 |
奈良 | 武田和也 |
和歌山 | 稲毛健太 |
山口 | 井山和裕 |
香川 | 吉田彰久 |
愛媛 | 橋本勝弘 |
福岡 | 古閑良介 |
佐賀 | 秋山貴宏 |
大分 | 安東英博 |
熊本 | 西島貢司 |
選手会役員は支部長兼務のため省略。
歴代理事長
- 初 代・・・菊池宣次(1952年9月 - 1957年3月)
- 二 代・・・横田隆雄(1957年4月 - 1962年3月)
- 三 代・・・前田勝美(1962年4月 - 1969年3月)
- 四 代・・・中原保(1969年4月 - 1978年3月)
- 五 代・・・大西敏明(1978年4月 - 1980年8月)
- 六 代・・・須賀昭義(1980年9月 - 1981年3月)
- 七 代・・・小川崇(1981年4月 - 1984年3月)
- 八 代・・・片折行(1984年4月 - 1996年3月)
- 九 代・・・岩楯昭一(1996年4月 - 2007年)
- 十 代・・・鈴木孝幸(2008年 - 2011年3月)
- 十一代・・・富原忠夫(2011年4月 - 2012年6月20日)
- 十二代・・・佐久間重光(2012年6月21日 - 2022年6月)
- 十三代・・・安田光義(2022年6月 - 、現職)
- なお、日本競輪選手会ホームページ内『歴代理事長一覧』では、初代が横田隆雄で現職の安田光義が第12代と記されている[9]。
エピソード
- 1960年3月22日の第10回通常総会において、東京都・茨城県・岐阜県の各支部計500名程度の選手らが、日本競輪選手会が全国単一組織となることに反対を表明し『全国競輪選手会』を結成した。以後、暫くは日本競輪選手会と全国競輪選手会の二つの選手会が併存したが、監督官庁である通商産業省からの指導が入ったこと、日本自転車振興会による仲裁の努力もあり、1963年になって日本競輪選手会の横田隆雄、全国競輪選手会の早川清一、両理事長が退くことで二つの選手会が合併するに至った[10]。1972年3月29日、全選手を会員とする発足当初の単一体に改組することが実現した[11]。
- 他の競技の選手会と違い、競輪の選手会はマスコミやファンにはあまり人気があるとは言えない。これは1989年に開催予定だったKEIRINグランプリ'89を、賞金の値上げ闘争の代償に中止へ追い込んだことが始まりとされる。この際に「ファン無視」と当時のスポーツ新聞は大々的に書きたてた。その後も出走ゲートに選手が揃ったにもかかわらず、先頭誘導員に出走拒否命令を下し、開催が中止になったこともある。詳細は「KEIRINグランプリ'89#賞金増額闘争」および「片折行#来歴」を参照
- 選手へのペナルティを参加自粛要請という形で、JKAとは独立して行うこともあり、しばしば二重制裁と言われる。
- 松本整が引退前年のレースで失格を連発した際に、選手会が先述の「二重制裁」を加えたことついて、松本整は「選手会は僕を守ってくれなかった」と反発した。結局、松本整はそれまでのS1からいきなりA級に降格を決められたことや、自身を守ってくれなかった選手会に反発し、2004年(平成16年)の高松宮記念杯競輪の優勝を花道に引退した。詳細は「松本整#記録更新から引退表明」を参照
- 松本整が引退前年のレースで失格を連発した際に、選手会が先述の「二重制裁」を加えたことついて、松本整は「選手会は僕を守ってくれなかった」と反発した。結局、松本整はそれまでのS1からいきなりA級に降格を決められたことや、自身を守ってくれなかった選手会に反発し、2004年(平成16年)の高松宮記念杯競輪の優勝を花道に引退した。
- 2013年12月に、現役18選手の選手会脱退表明がなされた。詳細は「SS11 (競輪)」を参照
- ^ 岩手、秋田、山形、石川、山梨、長野、滋賀、鳥取、島根、宮崎、沖縄の11県には支部がない。滋賀はかつて滋賀支部として存在していたが、大津びわこ競輪場の廃止もあり2018年4月に福井支部に統合された。
- ^ 選手会で所属する支部と、選手自身の登録地ないし練習の拠点としているホームバンクは一致しなくても良い。例えば、支部のない宮崎県や沖縄県を登録地とする競輪選手は鹿児島支部の所属である。ほかにも、大阪支部所属・登録地も大阪府ながら、ホームバンクを奈良競輪場としている選手がいるほか、ホームバンクが西武園競輪場の選手においても、埼玉支部、東京支部それぞれの所属がいる(さらに、かつて甲子園競輪場があった時代には、大阪支部所属ながら甲子園競輪場をホームバンクとしていた選手もいた)。
- ^ “「競輪に係る業務の方法に関する規程」第83条第2項(1)” (PDF). JKA (2021年5月7日). 2022年6月25日閲覧。
- ^ 2012年5月26日の向日町FII初日第3レースで落車棄権したのを最後に競走から離れているが、書類上は現役の競輪選手である。
- ^ スポーツニッポン・2014年2月26日付 20面「本紙評論家・井上茂徳の目」
- ^ “4月あっせんゼロS級130人超 選手の忍耐は限界に”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年4月29日) 2020年4月29日閲覧。
- ^ 一般社団法人日本競輪選手会役員一覧 - 日本競輪選手会ホームページ
- ^ 一般社団法人日本競輪選手会支部一覧 - 日本競輪選手会ホームページ
- ^ 歴代理事長一覧 (PDF) - 日本競輪選手会ホームページ
- ^ 競輪三十年史p.429 - 434、p.458 - 465
- ^ 選手会の歴史 - 日本競輪選手会ホームページ
- 日本競輪選手会のページへのリンク