御匣殿 (西園寺公顕女)
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『太平記』
凡例
御匣殿と尊良親王は、軍記物語『太平記』流布本巻18「春宮還御の事附一宮御息所の事」の恋愛譚の主人公として描かれる[14]。なお、流布本系統では「春宮還御の事」と「一宮御息所の事」でひとまとめにされて巻18の中盤に位置するが[14]、それ以前の写本では「一宮御息所の事」の恋愛譚が独立していることが多く、野尻本・楚舜本・慶長七年本では巻18下の巻頭を、日置本・豪精本・京大本では巻19の巻頭を飾る物語だった[22]。以下は天正本の粗筋(長谷川端校注・訳)[23]。
尊良、絵の美女の虜になる
後醍醐天皇一宮(第一皇子)の尊良親王は、学問も容姿も優れており、いずれ皇太子になるだろうと期待されていた[24]。しかし、北条得宗家の北条高時の横槍によって、次の皇太子は、後二条天皇第一皇子で、尊良の従兄弟の邦良親王に決まってしまった[24][注釈 2]。
政争に敗れてがっくりときた尊良は、何もかもが枯れていく気分になり、詩歌や管弦に遊んで暮らしていた[24]。尊良ならば、皇女の娘だろうが、摂関家の娘だろうが、どのような女性でも望むまま手に入るはずなのに、これと気に入った女性がいないのか、独身のまま過ごしていた[24][注釈 3]。
あるとき、尊良は関白左大臣家(左大臣鷹司冬教・関白鷹司冬平)の絵合わせ(絵を持ち寄って優劣を競う会)に参加した[24]。洞院左大将(洞院公賢か)は、『源氏物語』「橋姫」の段の絵を持ってきた[24]。それは、夜に柱の陰で琵琶を弾く大君と中君が、雲に隠れていた月が急に明るく差し込んだので、演奏を止めて柱の陰から顔をのぞかせる場面だった[24]。その姫君の顔が、言いようもないほど可愛らしく華やかに描いてあったので、尊良はたちまち虜になってしまった[24]。
尊良は洞院左大将から絵を貰って、毎日毎日眺めていたが、絵の中の美人はこちらに何も言わないし、笑いかけるでもないので、気分は一向に晴れなかった[24]。かといって、絵の美女を諦めようと思っても諦めきれず、以前よりもますます現実の女性に興味がなくなってしまった[24]。
御匣殿と尊良の出会い
気がめいった尊良親王は、気晴らしに賀茂御祖神社(下鴨神社)の糺の森へ参詣に行ったが、それでもなお絵の中の美女への想いは断ち切りがたく、涙で袖が濡れるほどだった[25]。帰り道、一条大路を西へ過ぎた時、物寂しい館から、琵琶の「青海波」の気品ある演奏が聞こえてきた[25]。
尊良が車を止めて覗き見をすると、数え17から18歳ほどの優雅な物腰の美女が、秋の去るのを惜しみ、物憂げに琵琶を弾いているのだった[25][注釈 4]。絵の中の美女とそっくり、いや、それよりもなお一層気品のある美しさに尊良は頭がぼうっとなり、思わず車から降りて館に近寄った[25]。すると、誰かに覗き見されているのに気付いた女性は、館の中に退出してしまった[25]。
尊良は恋心を誰にも言わず悶々としていた[25]。そこに、尊良の糺の森参詣に同行していた叔父で歌人の二条為冬は、尊良の気持ちをそれとなく察し、気を利かせて美人の素性を調べてきた[25]。例の美女は、西園寺公顕の娘であり、中宮西園寺禧子の御匣殿を務めていて、しかし徳大寺左大将(徳大寺公清か)と既に婚約済みであるという[25][注釈 5]。為冬は甥の尊良の恋の成就のために一計を案じ、御匣殿の父の公顕に頼んで、公顕の邸宅で歌会を開催してもらった[25]。一同の酔いが回ったころ、尊良は為冬の手引きで御匣殿の部屋に忍び込んだ[25]。尊良は恋の悩みを告白したが、御匣殿は優美に押し黙ったまま尊良を拒み、そのまま何事もなく夜が過ぎていった[25]。
宮中に帰った尊良はたびたび御匣殿に手紙を出し、その数は千通にもなったので、御匣殿の側でも徐々に心を開くようになってきた[25]。しかし、そのころちょうど、儒学者の藤原英房による、唐の政治学書『貞観政要』の講義があった[25]。いわく、中国の名君である唐太宗がある女性を后に迎え入れようとした時、賢臣の魏徴がその女性には既に婚約者がいることを指摘して立后を諌めたので、太宗は魏徴の諫言に従った、という[25]。これを聞いた尊良は、己の不徳を深く恥じた[25]。そして、御匣殿に恋文を出すのをやめてしまい、一人で一層苦悶するようになった[25]。すると、今度は徳大寺左大将の方が、「主上の一宮がそれほどまでに思い詰めていらっしゃるなら、どうして恋路を邪魔できようか」と言って、御匣殿との婚約を破棄して、別の女性のもとに通うようになった[25]。
晴れて公認の関係になった御匣殿と尊良の二人は、付き合い始めると、たちまち心が打ち解けて睦まじい夫婦となり、いずれ死後は同じ墓に葬られるようにとお互い誓い合う仲になったという[25]。
その後
史実としては、鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331年 - 1333年)以前に御匣殿は死去しているが[17][18]、『太平記』では、二人の恋愛を巡ってさらに長い物語が続く[26]。元弘の乱で土佐国(高知県)に配流された尊良親王に逢いに行くために決死の長旅を決意する御匣殿の冒険譚や、御匣殿を海賊から守ろうとして死ぬ家臣の秦武文の忠義、建武の新政が始まって再会できた夫妻の喜びなどが描かれる[27][注釈 6]。また、足利尊氏との戦い建武の乱において、尊良は金ヶ崎の戦いで敗れ、その首級が京都に送られてきた[29]。嘆きのあまり御匣殿は急激に衰弱して、尊良の四十九日法要の前に亡くなってしまった、と描かれる[29]。
日本史研究者の森茂暁は、『太平記』の恋愛伝説は史料では確認できないとしつつも、おそらく御匣殿と尊良は史実においても相思相愛の睦まじい夫婦であり、その記憶が『太平記』に投影されたのではないか、と推測している[18]。
また、尊良親王とその異母弟の恒良親王を主祭神とする金崎宮(福井県敦賀市)は、異称を「恋の宮」といい、御匣殿と尊良の恋愛伝説は『金ヶ崎恋物語』として敦賀市観光協会から出版されている[30]。また、「金崎宮案内記」の主張によれば、御匣殿と仲睦まじかった尊良は、「睦び和合の神様」、つまり夫婦円満・家内安全・縁結び・事業繁栄などを司る神として尊ばれているという[31]。
注釈
- ^ 中世日本においては、宮廷人にとっての一般知識・古典的教養である『源氏物語』の話は、宮廷における恋愛観にも影響力があった[2]。たとえば、後深草院二条が書いたとされる日記文学『とはずがたり』(14世紀初頭)のうち艶麗な宮廷恋愛模様を描いた前半部分には、展開と和歌の双方で『源氏物語』からの強い影響が見られる[2]。また、日本史研究者の中井裕子は、論文ではなく個人のウェブサイト上のくだけた文脈ではあるが、尊良親王の父である尊治親王(後の後醍醐天皇)が有力公家の娘である西園寺禧子を西園寺家邸宅から盗み出した事件について、政治的動機による婚姻ではなく、単に『源氏物語』の熱狂的な愛好家だった尊治が光源氏と紫の上の物語を演じたかったのではないか、という個人的動機に求める説を提起している[3]。
- ^ 史実としては、尊良親王が皇太子位を巡る後継者戦に出て敗れたのは、文保2年(1318年)の邦良親王立太子の時ではなく、嘉暦元年(1326年)の量仁親王(のちの光厳天皇)らとの争いの時[15]。
- ^ 歴史上では、尊良は御匣殿以外にも、母方の叔母とも関係を持っていたが(『増鏡』「むら時雨」)[5]、御匣殿との交際とどちらが先なのかは不明。
- ^ 実際には、御匣殿は、このとき数え21歳弱の尊良とほぼ同じか若干年上だったと思われる(#生涯)。
- ^ 「徳大寺左大将」が史実の徳大寺公清(このとき右中将で、中宮権大夫として御匣殿の同僚でもあった)とすれば、この時点で数え15歳ほどで、御匣殿・尊良よりも若い。
- ^ なお、尊良親王は容姿の端麗さと和歌の才能から、『太平記』では終始、文弱の印象に描かれ、鎌倉幕府との戦い元弘の乱でも、流刑先の土佐国(高知県)に留まったままでいる[26]。しかし、史実の尊良は、元弘の乱の最中に武人としても急激に成長し、流刑先の土佐から脱走し、九州に渡海して倒幕軍の旗頭となり、鎌倉幕府の九州方面軍である鎮西探題の打倒に貢献したと推測されるほどの勇将になっている[28]。
出典
- ^ a b c d e 藤原 1903, vol. 6, p. 46.
- ^ a b * 鈴木, 儀一「「とはずがたり」二条の教養 : 引歌をめぐって」『駒沢国文』第6巻、駒沢大学国文学会、1968年、 10–25。
- ^ 中井裕子 (2003年5月3日). “A LIFE OF 後醍醐天皇: 3. 皇太子時代”. きゅーchanのほーむぺーじ. 2020年8月13日閲覧。
- ^ 『大日本史料』6編1冊136–137頁.
- ^ a b c d e 井上 1983, pp. 231–234.
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- ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 548–565.
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- ^ “金崎宮 -かねがさきぐう- 「歴史と人物」尊良親王と金ヶ崎”. 金崎宮. 金崎宮 (2005年). 2020年6月22日閲覧。
- ^ 万代昌子 (2019年4月5日). “金崎宮は「恋の宮」♪ 難関突破も願えるパワースポット?そのご利益とは【敦賀市”. Dearふくい. 2020年6月22日閲覧。
- ^ a b c 山本 2017, pp. 35–36.
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- ^ 山本 2017, p. 48.
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