小野田寛郎 評価

小野田寛郎

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評価

小野田の手記(『わがルバング島の30年戦争』)(1974年)[注 6]ゴーストライターであった作家の津田信は、『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』(1977年)において、小野田を強く批判している。小野田が島民を30人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化できない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」をおそれたことが原因であると主張している[33]

津田の長男でジャーナリストである山田順は実際に小野田と会った際の印象について「冷酷で猜疑心の強い人」だったと述べている。手記が執筆されている際に2人で風呂に入る機会があったが、「今の若いのはダメだ」などと早口でまくしたてながら突然銃の撃ち方について説明を始めたりしたという。元新聞記者であった津田が小野田手記のゴーストライターとして「嘘を書いた」ことは痛恨の極みであったろうと山田は推測しており、小野田についても「ただの人殺し」、「完全に創られたヒーロー」としている[34]

一方で、肯定的な見方も存在する。帝国陸軍の事実上の後継組織である陸上自衛隊では、小野田を英雄視する評価が少なくない。特に小野田と由縁のある幹部候補生学校[注 7]では、軍刀などの小野田が実際に使用していた装備品が展示されているほか、校内各所に彼の言葉が掲示されるなど、その傾向が顕著である[35]

サーチナによると2009年に小野田の話が中華人民共和国ウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」、「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」、「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった[36][37]

2014年の小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズは「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」とし、小野田が1974年3月に、当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容し論評した[38][39]

また、ワシントン・ポストも、「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」とし、多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と論評した[39]

ルバング島から生還した元日本兵は終戦時すぐに投降した8〜9名と1946年3月に集団で投降した41名など約50名ほどである。その有志が集まって『ルバング会』という名の戦友会を作っていた。彼らがルバング会を結成したきっかけは小塚の戦死とそれに続く小野田の救出活動だった。しかし小野田生還後、小野田自身は戦友会には参加せず逆に関わりを持たない態度を取っていた。その原因は小野田が帰国後に出版した『手記』の内容(自説の美化、投降しなかった論理の矛盾、他の将校・部下への中傷など)にあるとされている。英雄として生還・帰国を果たしたにもかかわらず、そのわずか一年後にブラジルに移住した要因の一つは『手記』に含まれる誇張や虚偽の内容に関わる戦友との確執にあったとされる[40]


注釈

  1. ^ 中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用。
  2. ^ 当時24歳で、「小野田元少尉、野生のパンダ、雪男を発見すること」を人生の目標にしていた
  3. ^ 当時の週刊現代の社員が、健康診断のため入院した小野田の病室のドアに「手記500万円也」とメモした編集長の名刺を挟んだのが決め手になったという[4]
  4. ^ 15周目には発見者である鈴木紀夫との対談も載せた。
  5. ^ 第74回カンヌ国際映画祭ある視点部門オープニング作品に選出され、日本でも10月8日に全国公開されて以降、大入りが続いている(11月時点)[4]
  6. ^ 同著は津田信が代筆したところもあると津田信が主張。
  7. ^ 小野田が卒業した久留米第一陸軍予備士官学校は、後にその敷地や校舎の大部分が陸自の幹部候補生学校に転用されたという経緯があり、公式サイト等でもその連続性が主張されている。

出典

  1. ^ 【自然塾】一般財団法人 小野田記念財団 ~小野田寛郎 人物歴~”. onoda-shizenjuku.jp. 2022年10月16日閲覧。
  2. ^ 小野田寛郎 | 著者プロフィール | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2022年10月15日閲覧。
  3. ^ NHK. “小野田寛郎|NHK人物録”. NHK人物録 | NHKアーカイブス. 2022年10月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 週刊現代2021年11月27日号シリーズ昭和スクープ史・横井庄一と小野田寛郎「忘れられたふたりの帰国劇」p173-180
  5. ^ 和歌山県民の友WEB 8月号”. www.pref.wakayama.lg.jp. 2022年10月15日閲覧。
  6. ^ 小野田寛郎 | 著者プロフィール | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2022年10月15日閲覧。
  7. ^ 小野田寛郎 | 著者プロフィール | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2022年10月16日閲覧。
  8. ^ 陸自前川原駐屯地 幹部候補生学校史料館”. ki43.on.coocan.jp. 2022年10月16日閲覧。
  9. ^ 戸井(2005年)57頁
  10. ^ 戸井(2005年)56頁
  11. ^ 『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』, p. 66-86.
  12. ^ a b 网易 (2014年10月22日). “二战最后一个阵亡的日本士兵:1972年10月”. war.163.com. 2019年7月26日閲覧。
  13. ^ 津田 1977, p. 不明.
  14. ^ a b 小野田さん帰国 42年後の真実”. NHKニュースWEB (2016年7月26日). 2016年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月26日閲覧。
  15. ^ a b 小野田元少尉 ジャングルでラジオを聴いて競馬を賭けていた(週刊ポスト1997年3月28日号からの抜粋記事)”. 週刊ポスト. 2021年6月22日閲覧。
  16. ^ a b 小野田元少尉はジャングルの中で大阪万博開催を知っていた(週刊ポスト1997年3月28日号からの抜粋記事)”. 週刊ポスト. 2021年6月22日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h i 第12章 日本人は小野田元少尉をどう見たか : フィリピンの残留日本兵をめぐる語り(永井 均)平和への扉を開く』 2019
  18. ^ 小野田『わがルバン島の30年戦争』7-13ページ
  19. ^ a b 永井均残留日本兵とメディア : 小野田寛郎元少尉の帰還をめぐって (独立論文)」『広島平和研究』第7巻、広島市立大学広島平和研究所、2020年3月、61-91頁、CRID 1050296586507118976ISSN 2188-1480 
  20. ^ <あのころ>小野田さん救出 ルバング島に30年 | 共同通信”. 共同通信 (2021年3月9日). 2021年9月22日閲覧。
  21. ^ Hiroo Onoda, Soldier Who Hid in Jungle for Decades, Dies at 91”. The New York Times (2014年1月17日). 2021年9月22日閲覧。
  22. ^ 国会会議録検索システム”. 国会会議録検索システム. 2021年9月22日閲覧。 第70回国会 衆議院 社会労働委員会 第1号 昭和47年10月28日 004 増岡博之
  23. ^ 『土佐人の銅像を歩く』岩崎義郎著、土佐史談会、2003年
  24. ^ 「お気持ちは分かるが 老父の参加見合せ」『朝日新聞』昭和48年(1973年)2月8日朝刊、13版、3面
  25. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、126頁、231頁。ISBN 4062122227
  26. ^ 財団法人小野田自然塾(団体情報)”. 2021-10-15 閲覧。
  27. ^ 小野田 寛郎さん”. 出没!アド街ック天国. テレビ東京 (2010年7月24日). 2019年5月8日閲覧。
  28. ^ “「日本女性の会」会長に小野田夫人=日本会議の女性団体=開拓30年の経験に期待=尾西兵庫会長=「しっかりした人」”. ニッケイ新聞. (2006年12月5日). オリジナルの2013年4月24日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130424103032/http://www.nikkeyshimbun.com.br/061205-71colonia.html 2013年2月8日閲覧。 
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  30. ^ 日本に欠けているもの=覚悟”. 日本創新党 荒川区議会議員小坂英二の考察・雑感. 小坂英二. 2019年5月8日閲覧。
  31. ^ “訃報:小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年”. 毎日新聞. (2014年1月17日). オリジナルの2014年2月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140201164614/http://mainichi.jp/select/news/20140117k0000e040208000c.html 2014年1月17日閲覧。 
  32. ^ 注目の人 バックナンバー No.029”. ブルーシー・アンド・グリーンランド財団 (2008年1月). 2014年9月21日閲覧。
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  34. ^ 『小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか』, p. 140.
  35. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2015年4月5日). “陸自幹部学校、史料館改装オープン 乃木大将の書など688点 福岡”. 産経ニュース. 2023年1月28日閲覧。
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  40. ^ 『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』, p. 207-215.
  41. ^ “小野田寛郎さんに勲章 日本人初、ブラジル空軍”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年12月17日). オリジナルの2013年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130430203809/http://www.47news.jp/CN/200412/CN2004121701003972.html 2013年2月8日閲覧。 
  42. ^ 小野田寛郎プロフィール”. 小野田自然塾. 2014年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月21日閲覧。
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  44. ^ ヌード~MR.Oの帰還 Nude - 音楽CD - MUUSEO
  45. ^ Nude - フリー百科事典『キャメペディア(Camepedia)』
  46. ^ ALI PROJECT VANITYMIX WEB LIMITED INTERVIEW”. VANITYMIX マガジン (2023年2月18日). 2023年9月24日閲覧。
  47. ^ 『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』, p. 116-132.
  48. ^ 『小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか』, p. 47-P50.
  49. ^ 昭和の大戦争 第7章 昭和の終焉”. nposensi.com. 2015年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月18日閲覧。
  50. ^ 「たしかな命中率・威力 よく30年間もみがいて」『朝日新聞』昭和48年(1973年)1月19日朝刊、13版、3面






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