小菅神社 (飯山市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 15:06 UTC 版)
歴史
役小角によって開山され、繁栄を見た後、武田氏の兵火によって衰退するに至ったという、小菅山の由緒にまつわる上述のような理解は、戦国時代から近世初期にかけて成立したものである。こうした理解は、地元においても広く信じられているだけでなく、それを裏付ける有力な古文書が見られることから、歴史学においてもしばしば通説として扱われてきた。
しかしながら、繁栄から衰退に至る過程を述べた諸史料の性格を勘案すると、それら諸史料の記述をただちに史実として受け入れることは難しい。かかる由緒を述べ伝える主要な史料として挙げられるのは、信州高井郡小菅山元隆寺略縁起である。この文書は慶長5年(1600年)に記され、元禄元年(1688年)に改稿されたとされる文書である。しかしながら、この文書は元隆寺の別当大聖院によって作成されただけでなく、版木に刷られて頒布されており、それなりの資金を必要としたはずである。武田氏の兵火に遭った後、元隆寺がもし衰退するにまかされていたのだとしたなら、そのような事業が可能であったと考えるのは不自然である[1]。
近年の小菅山研究が、小菅の民俗研究や、他の史料を採り入れて明らかにしつつある小菅山の歴史は、上記のものとはやや異なる姿を示している。
表2に小菅山に関する主要な史料を示す。以下の記述では、表2に示す史料に言及する際は表中の略記を用いる。
史料名 | 略記 | 年代 | 概要 |
---|---|---|---|
信濃国高井郡小菅山八所権現并元隆寺来由記 | 来由記 | 天文11年 (1542年) |
元隆寺の開山由緒、祭神、僧坊、結界、沿革。「別当并衆徒中」の名義あり。 |
長尾影虎願文案 | 謙信願文 | 弘治3年 (1557年) |
武田晴信との合戦に臨んで元隆寺に治めた願文。元隆寺の由緒と繁栄について記す。坂上田村麻呂に言及しつつ武運を祈念する。 |
信濃国高井郡小菅山元隆寺之図 | 元隆寺之図 | 永禄9年 (1666年) |
中世における小菅山の繁栄の様子を描いた図。多くの僧坊を従えた様を描く。制作年代に疑問あり[2]。 |
信州高井郡小菅山元隆寺略縁起 | 略縁起 | 慶長5年(1600年)作成 元禄元年(1688年)改稿 |
来由記の記述を基に、元隆寺の開山由緒、祭神、僧坊、沿革を述べる。中世における繁栄と武田氏の兵火による荒廃・衰退の経過を記しており、小菅山の歴史的展開に関する通説的理解の基礎をなした文書。 |
先史時代
他の修験霊場にも見られるように、小菅山にもまた自然信仰の層を見出すことができ、そうした基層をまず見ておくべきであろう。小菅山のある飯山市小菅集落の周辺では、縄文時代にさかのぼる集落遺跡が発見されており、弥生時代中期には稲作が開始されていたことが判明している。すなわち、早い時期から小菅山の一帯には定住が見られたのである。すぐ北に越後国をひかえた、世界でも有数の豪雪地帯でありながら、そうした定住が可能であったのは、雪と森、そしてそれらがもたらす豊かな水のゆえであった。そして修験入山以前の時代には、そうした自然の実り豊かさに対する信仰(水分神信仰)が行われていたことが分かっている。
小菅山の確立
こうした自然信仰的な基層に対し、小菅山の信仰に社寺としての形態が与えられた年代、すなわち小菅山の歴史的創建は、おそくとも平安時代後期までのことと考えられている。小菅山にまつわる諸史資料のなかで、社伝の木造馬頭観世音菩薩坐像が平安時代後期の作と推定されるためである。
平安時代後期はまた、本地垂迹思想の定着と、中世熊野御幸の隆盛期でもある。小菅山を含めた北信州一帯においても、後白河院撰の『梁塵秘抄』に戸隠山がうたわれていることから推測されるように、熊野修験が入り込んできただけでなく、小菅山の確立に寄与したものと考えられている。事実、小菅山を含む小菅荘一帯には、八所権現だけでなく、熊野社も数多く勧請されており、小菅山の霊場としての確立期に熊野修験の活動があったことを知ることができる。
なお、この時期までに小菅山が確立していたことを伝える史料に、社伝の菩提院曼荼羅がある。菩提院曼荼羅は、中国から輸入された絹地に畿内で彩色されたものであり、制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてと推定されている。このような希少品を蔵することからも、小菅山が一定の勢力をともなって確立したことをうかがい知ることができるだろう。
南北朝時代から隆盛期まで
鎌倉幕府崩壊から南北朝時代の始まりころまでには、小菅山を含む小菅荘一帯は、南に高梨氏勢力下の犬飼荘、北に市河氏の志久見郷湯山荘に接し、両者の緩衝地帯として戦略的な要地となっていた。しかし、南北朝の騒乱はついにこの地に及び、延文元年(1356年、南朝正平11年)には、志久見郷侵攻を企てた南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗している。その後、高梨氏は勢力を盛り返し、市河氏に対する復仇戦に勝利を収めているが、この頃を境に南朝党の勢力は衰微し、両朝統一の趨勢に従った。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎えることになる。
この頃の小菅山の隆盛を示すものとして、この時期に行われた元隆寺での造営を伝える文書がある。応永13年(1422年)には、加耶吉利堂が建立され、堂内には近隣の土豪らによって著色観音三十三身板絵(応永年間在銘)が寄進された。永享2年(1430年)からは4年の歳月をかけて、元隆寺の宮社坊中寺観が再建された。永正5年(1508年)9月には、奥社内の宮殿が建立され、天文15年(1546年)には、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が製作されている。これらの記録からすると、16世紀の半ばまで、小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったのである[2]。
なお、応永12年(1421年)には、将軍足利義持が大納言法印忠意に禅林寺永観堂若王子別当職などとともに、社領として信濃国小菅荘ほかを安堵したとの記録が残されている[3]。この件に関する資料の大半を蔵する禅林寺若王子社は、もともと後白河院が永暦年間に熊野三山の土を運んで熊野権現を勧請したと伝えられる社である。若王子社領として領知されたことを述べるこの文書から、この時期までに小菅山が京都の支配下におかれていたことが確認できる。応仁元年(1467年)にも将軍足利義政から大納言法印忠雅に同様の領知があった[4]。
戦国時代
戦国時代における信濃は上杉氏と武田氏の争覇の舞台であり、その騒乱から小菅山も逃れることはできなかった。実際、既述の謙信願文は、上杉謙信が武田晴信に合戦を挑むに際してのものである。上杉氏と武田氏の一連の戦いで、小菅山を含む小菅荘一帯も戦禍に巻き込まれたことは間違いなく、武田氏領に帰した時期があったのも事実である。とはいえ、略縁起が伝えるように武田氏の侵攻によって一挙に荒廃したとするのは過度な誇張である。武田領となった後、天正7年(1579年)2月25日付で、武田勝頼は「小菅」と越後赤沢の間の連絡の便を図るため、人家を置かせており、小菅の地の戦略的・交通的な重要性は依然として認知されていたからである。
この時期はまた、京都からの自立の時期でもあったようである。永禄11年(1567年)の禅林寺若王子神社領覚書[5]によれば、小菅荘からの年貢が不達である旨が述べられており、この頃までには京都の支配から脱していたことが推定される。
近世以降の小菅
その後、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、川中島四郡は織田氏の家臣・森長可が支配する。同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生すると、小菅は越後国の上杉景勝領となり、情勢が安定を見るとともに奥社本殿が再建された。
再建にあたっては、小菅山の経営にあたっていた別当寺院大聖院のほか、18坊が願主となり、天正19年(1591年)に完成している。完成の2年後、文禄2年(1593年)には、越後の人、金丸与八郎が鉄製鰐口を奉納している[6]。この様に、度重なる混乱に巻き込まれながらも、越後からの鰐口奉納があったことに見られるように、小菅の宗教的権威は依然として衰えなかった。
慶長3年(1598年)2月、上杉氏の会津移封にともなって大聖院が移転した。このことにより、小菅山の再建が頓挫したとされるが、それは必ずしも正しくない。慶長11年(1606年)には、皆川氏より絵馬2面が寄進されており、大聖院の移転と小菅山の聖地としての性格は別個のものであった。また、新たな別当に神袋坊を迎えて大聖院自体も存続しているのである。
年代 | 大聖院 | 小菅村 | 備考 |
---|---|---|---|
慶長年間 | 549石余 | 慶長打立帳による。関沢村を含む。 | |
慶長11年(1606年) | 78石 | 村高の内数。旧領の安堵と寄進を合した数値。 | |
正保年間・ 元禄年間 |
267石余 | 正保書上および元禄郷帳による。 | |
慶安5年(1652年) | 56石余、百姓22戸 | ||
正徳5年(1715年) | 85石余 | ||
享保7年(1722年) | 98石余 | ||
延享7年(1748年) | 86石余 | ||
天保年間 | 435石余 | 天保郷帳による。 |
大聖院の移転が小菅の退勢をもたらさなかったことを裏付けるものとして、大聖院と小菅村の石高記録がある(表3)。文禄4年(1594年)に実施された上杉領内検地の記録『文禄三年上納員数録』によれば、大聖院の知行高は58石とされ、小菅の集落全体を下回る。以後、近世の記録を見ても、小菅の石高と大聖院の知行高には開きがあることが分かる。しばしば大聖院と小菅は同一視され、大聖院が小菅に及ぼした影響力ないし支配力は非常に大きなものと見なされる。しかし、上記のような石高記録が示すところによれば、実際には大聖院は小菅の一部であったのである。
大聖院が小菅の一部であったという論点はさらに、小菅神社の主要な神事である柱松柴灯神事の形態によっても補強されるだろう。
柱松柴灯神事は修験道の祭事とされ、元隆寺が大きな役割を担ったとされてきた。しかし、略縁起やそれに由来する通説的理解の説くところによれば、元隆寺は戦国期の荒廃以後、再建されることもなく荒廃するにまかされて、近世にさしかかる17世紀初めには、すでに廃墟と化していたのではなかったのだろうか。戦国期に元隆寺が衰退したままであったのならば、なぜ柱松柴灯神事のような大きな祭事を執行・維持できたのかが説明できない。また、寺院が主導したというならば、明治期の廃仏毀釈にもかかわらず、祭が廃絶しなかったのかを説明できない。さらに、諸史料に見られる柱松柴灯神事の記述を追ってみると、「修験神輿前において柱松柴灯護摩を修す」(来由記)、(奥院にて)「馬頭の護摩を修す」「天下太平のために奥院におゐて長日の護摩を始終す」(略縁起)などとあり、修験寺院の祭事としての性格が明瞭である。それにもかかわらず、今日の柱松柴灯神事には護摩にかかわる儀礼は存在しておらず、寺院による関与も見られないのである。今日の神事に用いられる山伏面・山姥面が江戸時代初期に製作されていることや、奥社参道の杉並木や小菅に残されている宗教建築の多くが江戸時代に整備されたものであることが判明しており、その様に積極的な霊場経営が行われていたという事実は、通説的理解と整合しない。以上のように、通説的理解はいくつもの矛盾を含んでいるのである。
そうした通説的理解とは異なる小菅の近世の姿を描き出している点で、注目すべき民俗史料がある。天明3年(1783年)に取り決められた「御祭禮日市中村定連判帳」である。この文書は、祭礼日の治安維持や、参詣者を目当てにした市の管理、市に出店する店からの金銭徴収などが定められており、要約するならば里人による祭礼運営の規約である。この文書が示すところからすると、祭礼に出店する商人たちからの金銭徴収は村の収入となっていた。そのため、市を栄させるために必要な配慮がなされており、そのあらわれがこの文書である。このことが示すところは、祭礼が小菅の村の世俗的運営に委ねられていたということに他ならない。
以上からすると、中世から近世への移行期にあって、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移り、それとともに祭礼の性格も宗教的なものから、観客(参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格に移行して行ったと考えられる。そして、そのために、明治の廃仏毀釈を経ても柱松神事は途絶えることがなかったのである。
小菅山の歴史についての通説的理解は、元隆寺やその別当寺院たる大聖院の役割を非常に大きなものとして描いてきた。しかしながら、そうした通説的理解が正しくないことが、以上から浮かび上がってくる。戦国期の兵乱を経てもなお、元隆寺の勢威は衰えたわけではなかった。しかしながら、近世以降の小菅山においては、里人の世俗的な霊場経営が優越し、元隆寺が霊場経営に果たした役割は逆に縮小して行ったのである。
近代
明治時代になって、神仏分離令が発されると、小菅山においても小菅神社と大聖院が分離されることとなった。しかし、明治2年(1868年)には大聖院別当職にあった武内英真が神職に就き、仏式什器を菩提寺に移管する一方で、小菅山八所大権現を小菅社八所と改め、今日の小菅神社の直接的な起源に当たる神社が成立した。
明治3年(1871年)に社格制度がしかれると、小菅神社は、1873年(明治6年)に郷社に列せられ、1933年(昭和8年)には県社に列せられている。1909年(明治42年)には、小菅村内の村社19社と無格社5社を合祀し、1946年(昭和21年)の分社寺まで、一村の村民全てを氏子とした。1951年(昭和29年)の神道指令までは、例祭日には県の奉幣使の参向があった。
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 73-74]。
- ^ a b こうした隆盛期の小菅山を描いた絵図として、1566年(永禄9年)の銘がある元隆寺之図が知られている。この図では、上之院19坊、中之院19坊、下之院11坊をかぞえ、これらを統括する本坊大聖院には19の末院があったとされている。だが、既述の1561年(永禄4年)の川中島の戦いの兵難とこの絵図は年代が矛盾している。また、僧坊の名や、石垣の位置など年代と符号せず、疑問とすべき点も多い。こうしたことから、この絵図は、小菅の繁栄を示すため、近世になってから遡及的に描かれたものである可能性があり[信州大学・飯山市小菅研究グループ編 2005:76-77]、この絵図の史料としての信憑性には留保が必要である。
- ^ 『信濃史料』第7巻。
- ^ 『信濃史料』第8巻。
- ^ 『信濃史料』第13巻。
- ^ 「小菅神社所蔵棟札銘写」および「小菅神社所蔵鉄製鰐口」、いずれも『信濃史料』第17巻所収。
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 78-79]。
- ^ 文化庁監修『解説版新指定重要文化財 11 建造物I』(毎日新聞社、1981)、p.74
- ^ 飯山市文化財編纂委員会[2002: 88-133]。
- ^ 信州の文化財(公益財団法人八十二文化財団)
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