吉田美奈子
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経歴
高校生の時、所属する東京キッドブラザースのロック・ミュージカルで演奏していたエイプリル・フールの細野晴臣・松本隆と知り合い、彼らの勧めにより楽曲制作を始める。
ローラ・ニーロやキャロル・キングのようなシンガーソングライターのスタイルを指向し、ライヴ中心の活動を開始する。
1971年5月に、第一期ブルース・クリエイションのベーシスト野地義行とピアノデュオ「ぱふ」を結成。アマチュア活動時代に、「はっぴいえんど」周辺の音楽家との交流を持ち、1972年11月に発表された大瀧詠一の1stアルバム『大瀧詠一』へ収録された楽曲『指切り』のフルートソロで、プロとしてのキャリアをスタートする。
1973年9月、細野晴臣のプロデュースによる1stアルバム『扉の冬』を発表。RCA/air在籍時の山下達郎の楽曲提供のバックコーラスを手掛け、相当数の歌詞も提供している。
『mimi』1977年3月号の「ニューミュージックスター年鑑」での吉田の紹介では「女性なのに(原文ママ)ボクのやっているのはニューミュージックなんかじゃなく、ミュージックだよ」と話した[1]。
1985年、サントリーのギフトCM用に『THANKS TO YOU』を制作、第33回「カンヌ国際広告映画祭」で銀賞を受賞。
大瀧詠一の作品で後に多くの歌手にカバーされた「夢で逢えたら」の創唱者でシングルは彼女の移籍後にリリースされた。この件については、大瀧も自身がトータルプロデュースしたシリア・ポールのアルバム「夢で逢えたら」1986年再発売版の解説で、元々はアン・ルイス用に制作した曲がお蔵入りとなっていたもので、これを聞いた制作側から提供を求められた際、「吉田のために作った曲ではないし、こうしたポップス・タイプは好まないのではないか」と制作側に意見した経緯を紹介している。また、「大瀧詠一 SONGBOOK 2」の解説では「その気持ちがよく分かる」と理解を示している。その一方、いずれのライナーでも吉田のバージョンは完全に「彼女のもの」になっている旨のコメントを掲載し、才能を高く評価している。
2002年にエイベックスがCCCDを導入した際、CCCDは音質が劣化している上にCDプレーヤーにも負担を与えるのではないかという指摘に対し、「音質はたしかに変わるがCDからCCCDになったのだから仕方のないこと」「音楽家が生活するためにはCCCDは必要」「音質ではなく音楽を聴いてほしい」等の発言で多くの議論を巻き起こしたが、2004年9月にエイベックスはCCCDでのリリース中止を表明した。後年、「2002年にエイベックスが、会社の方針でCCCDを導入する、私はそのことに従った。そうしたら“吉田美奈子がCCCDを容認していいものか”と言われて、あたかも私が率先してプロパガンダしているような扱いにされてしまったり、何か意見を出したことによって誹謗中傷されたりした」「だから、あの騒動は“それぞれのマテリアルには、それぞれの音がある”と認識した上で話さないといけない問題だったんですよ。正直にものを言うってこわいな、と思いましたよ」と振り返っている[2]。
- ^ 「ニューミュージックスター年鑑」『mimi』1977年3月号、講談社、71頁。
- ^ 太田出版『QuickJapan Vol.65』 p.146-151(2006年4月11日発行)
- ^ “小林兄弟監督作「フローレンスは眠る」予告編完成 主題歌は吉田美奈子の「時よ」”. 映画.com (2016年1月22日). 2016年1月22日閲覧。
- ^ a b “細野晴臣プロデュース、リンダ・キャリエール幻のアルバムが47年経て正式発売”. ナタリー. 株式会社ナターシャ (2024年4月22日). 2024年4月25日閲覧。
固有名詞の分類
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