ロンゴロンゴ
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歴史上の記録
発見
1722年、オランダのヤーコプ・ロッヘフェーン提督の艦隊が島を発見。1770年、スペインのペルー総督が上陸。1774年、イギリスのジェームズ・クックが上陸。1786年、フランスの探検家ラ・ペルーズが上陸。それぞれ島民の暮らしや石像についての証言や記録はあるが文字の発見は無い。
イエズス・マリアの聖心会 (フランスのカトリック修道会) の平修道士、ウジェーヌ・エイロー (Eugène Eyraud) の報が文字発見の初出となる。エイローは、チリの港町バルパライソを出発して24日目の1864年1月2日、イースター島に上陸、その後9か月間イースター島に滞在して住民への布教活動を行った。彼はイースター島の滞在記を著し、その中で文字板の発見について報告している。
家々には、数種類の象形文字が一面に刻まれた、木製の板や棒がある。それらはこの島のある種の動物を住民が尖(とが)った石で描いたものである。文字にはそれぞれ名称がある。ただ、住民達はこれらの文字板をぞんざいに扱っていることから、原始の書記体系の残存物であるこれらの文字を、今や彼らはその意味を知ろうともせず、ただ習慣的に保存しているだけになっている、と私は考えるに至った。[注釈 12] — Eyraud 1886:71
エイローの報告にはこれ以外に文字板らしき品についての言及も無く、島民による聞き取りも行わずこの発見が注意を引くことはなかった。エイローは10月11日、著しく健康を害して一旦離島。1865年、エイローは完全に一人前の修道士となり、1866年に再上陸、布教の成果を上げるため、土着信仰と関わりがありそうな物品を破壊したとされる。同年8月、エイローは48歳で結核のためイースター島で客死。
破壊
1868年、タヒチ島の司教、フロランタン・エティエンヌ・ジョーサン (Florentin-Étienne "Tepano" Jaussen) は、カトリックに改宗したばかりのあるイースター島の住人から贈り物を受け取った。それは、人間の髪の毛でできた糸(おそらく釣り糸)が周囲に巻き付けられた、絵文字の刻まれた木板であった(「文字板 D」)。この発見にジョーサンは驚き、イースター島にいるヒッポリト・ルーセル神父 (Hippolyte Roussel) に宛てて、すべての文字板を収集し、それらを翻訳できる先住民を見つけ出すよう手紙を書いた。しかし、ルーセルが発見した文字板はわずかで、テキストの読み方についても住民の間で意見の食い違いがあった[36]。
エイローはこれよりも2年前に何百もの文字板を目撃していたが、失われた文字板がどうなったのかは推測するよりほかない。エイローは、文字板の持ち主がほとんどそれらに関心を持っていないことを指摘している。フランスの医師で、ロンゴロンゴの図解入り解説書を最初に著した、ステファン・ショーヴェ (Stéphen Chauvet) は次のとおり報告している。
司教がイースター島の賢人テカキ(Tekaki)の息子、オウロウパロ・ヒナポテ(Ouroupano Hinapote)に尋ねたところ、彼は自分で必要な勉強をして、絵文字を小さなサメの歯で刻む方法を知っていると答えた。また、ペルー人がすべての賢人を殺してしまったため、島には絵文字を読める者は1人も残っておらず、島の住民は文字板に何の関心も持たなくなり、薪として燃やしたり、釣り糸のリールとして使用している、と語った。
フランスの探検家、言語学者、アルフォンス・ピナール(Alphonse Pinart)も、1877年にいくつかの文字板を見ている。彼は文字板を手に入れることができなかった。なぜなら島の住民はそれらを釣り糸のリールとして使っていたからである。 — Chauvet 1935:381–382
オルリアックは、「文字板 H」の5行目と6行目に長さ10 cmほどの黒く、深い溝があることに注目し、その溝が火起しのために棒で擦られた跡であると考えた(Orliac 2003/2004:48–53)。「文字板 S」と「P」はカヌー用の床板として裁断されていたが、これはニアリ(Niari)という名の島の男性が、遺棄された文字板からカヌーを作ったという言い伝えに合致する[37]。
ヨーロッパから持ち込まれた疫病や、ペルーからやって来た奴隷狩り集団の襲撃(1862年の最後の襲撃も含む)と、その結果広がった天然痘の流行により、イースター島の人口は1870年代には200人以下に減少していた。そのためエイローが文字板を発見した1866年頃には、文字の知識がすっかり失われていたということは、充分に可能性のある話である[注釈 13]。
1868年にジョーサンはわずかな文字板しか回収できなかったが、1870年にはチリのコルベット軍艦オヒギンズ号(O'Higgins)のガーナ艦長により、もう3点の文字板が集められた。1950年代にバルテルは、埋葬場所である洞窟から、腐敗した数点の文字板を発見した。しかし、絵文字の修復は不可能であった[注釈 14][41]。
今日では、現存している文字板として通常26点が数えられており、そのうち状態が良好で、本物であることに疑いがないのは半分のみである[42]。
人類学者による報告
イギリスの考古学者、人類学者のキャサリン・ルートリッジは、1914年から1915年にかけて夫ともにイースター島の科学的調査を行い、美術、習慣、文字についての情報収集を行った。彼女はカピエラ(Kapiera)とトメニカ(Tomenika)という名の、2人の年長のインフォーマントと面談することができた。2人はロンゴロンゴの知識もあると言われていた。しかし彼らとの面談は、しばしば2人がお互いに矛盾するような情報を提供したため、実りあるものにはならなかった。彼らとの面談からルートリッジは、ロンゴロンゴは言語を直接書き表したものではなく、記憶を助けるために考案された特殊な記号、いわば、原文字ともいえるもので、絵文字の意味も書く人により異なるため、ある文字板を読もうとするならば、そのテキスト独自の読み方の訓練が必要になる、と結論付けた。また彼女は、テキスト自体は島の歴史や神話を物語る詠唱を司祭達が記録したもので、特殊な建物に秘匿されていた非常に「神聖なもの」(tapu)と考えていた[43][注釈 15]。メトローなどの後代の民族学者の頃には、ルートリッジが残した記録は忘れられ、現地の口伝による伝承も、広く認められている刊行された報告書に強い影響を受けるようになった。
注釈
- ^ 木製のレプリカがイースター島の主都ハンガ・ロアのゼバスティアン・エングレルト神父人類学博物館 に所蔵されている。
- ^ ジャン=フランソワ・シャンポリオンがロゼッタ・ストーンの解読とヒエログリフの解析で快挙を成し、一大センセーションを巻き起こしたのが1822年。
- ^ a b ドイツ出身でイースター島に居住した神父、言語学者のゼバスティアン・エングレルト (Sebastian Englert) がロンゴロンゴをこのように訳しており("recitar, declamar, leer cantando" <to recite, declaim, read chanting>)、「タンガタ・ロンゴロンゴ」(tangata rogorogo = ロンゴロンゴ男)を「コハウ・ロンゴロンゴ(詠唱の絵文字を記した板)を読むことが出来る男」と説明している。ロンゴロンゴは「伝言、命令、知らせ」を意味する rongo の畳語であり、tangata rongo は「伝令者」の意である。
また、「コハウ」Kohau は「板の上に線 (hau) で書かれた絵文字、あるいは棒状の書記道具」とされている。
ラパ・ヌイ語の rongo /ɾoŋo/ の同根語は、 マレー語の dengar /dəŋar/、フィジー語の rogoca /roŋoða/、ハワイ語の lono /lono/等、他の多くのオーストロネシア語族の言語に見られ、いずれも「聞く」などの意味を有する。 - ^ Merton D. Simpson Gallery収蔵
- ^ a b 例えば、スイスの人類学者アルフレッド・メトロー(Alfred Métraux)は1938年、「文字板 V」について、「本物であるか疑わしい。絵文字は金属製の道具で刻まれたとみえ、本物の文字板の特徴である、絵文字の輪郭の規則性や美しさが見られない。」と述べている。1880年代には、文字板の模造品が旅行者の土産品として製作されていた。
- ^ これはおそらく、サンクトペテルブルクの博物館で моаи папа(翻字:moai papa) というラベルとともに所蔵されている、「モアイ・パアパア」の像(mo‘ai pa‘apa‘a, Catalog # 402-1)のことを指しているのであろう。
- ^ もし、ロンゴロンゴが純粋な音節文字であるなら、ラパ・ヌイ語を表記するのに必要な文字数は、母音の長短を区別しない、あるいは長母音を二重母音として扱った場合、55種類である[10]。
- ^
バルテルはこの方法を実際に試しており、ベルギーのフランソワ・デドラン(François Dederen)は、1993年に同じ方法でいくつかの文字板を複製している。フィッシャーは次のように述べている[23]。
「サンクトペテルブルク大文字板([P]r3)」では、…鳥の嘴が黒曜石の薄片で刻まれた跡を確認できるが、書記が上から清書する際により丸い形に直されている。…なぜなら、書記は清書の際にはサメの歯でできた別の道具で刻んでいるからである。「サンクトペテルブルク大文字板 [文字板 P]」には、清書の際に少し形を変えて刻まれた絵文字の例が多く見られる。 ロンゴロンゴの絵文字は、「物の輪郭を描いた絵文字」("contour script") であり、輪郭の中、あるいは外には、様々な線や、円、斜線、点が加えられている[24]、…しばしば、そのような絵文字の輪郭以外の部分が、サメの歯で清書されずに、黒曜石で刻まれた細かい線の下書のまま残されている例がある。このような例はとくに、「ウィーン小文字板(文字板 N)」ではっきりと認められる。
- ^ 一方ニワトリは、イースター島でも主な流通品のひとつであり、文字板の中には、首長が何人殺して、何羽のニワトリを盗んだのかを記念したものと推定されているものがあるにもかかわらず、ニワトリを描いたと思われる絵文字は見つかっていない[27]。
- ^ 「通常の炭素年代法で得られた結果は… 80 ±40 BP で、2-シグマ修正による年代は(95%の可能性)、Cal AD 1680からCal AD 1740の間(Cal BP 270から200)、Cal AD 1800から1930(Cal BP 150から20)、そして AD 1950から1960(Cal BP 0 から 0)であった; 実際、この文字板は1871年に収集されたものであるため、それより後の測定年代は誤りである。」"
- ^ 「ママリ」の木は幅19.6 cmで、外側の円周部に白木質を含んでいる。そのような幹の直径の特徴は、最大で高さが15 mになるPacific rosewoodの幹の特徴と一致する。
- ^ Dans toutes les cases on trouve des tablettes de bois ou des bâtons couverts de plusieurs espèces de caractères hiéroglyphiques: ce sont des figures d'animaux inconnues dans l'île, que les indigènes tracent au moyen de pierres tranchantes. Chaque figure a son nom; mais le peu de cas qu'ils font de ces tablettes m'incline à penser que ces caractères, restes d'une écriture primitive, sont pour eux maintenant un usage qu'ils conservent sans en chercher le sens.
- ^ メトローは、「現在の島の先住民456人は全員、1872年にフランスの宣教師達が島を離れた後に残っていた住民111人の子孫である」と述べている[38]。しかし、イギリスの人類学者キャサリン・ルートリッジ(Katherine Routlegde)は、ルーセル神父が島から避難した1871年に、島に残っていた住民の数は171人で、ほとんどが老人であったとしている[39]。また、アメリカ海軍の軍医でイースター島を訪問したジョージ・H・クーク(Geroge H. Cooke)は、1878年に約300人の人々が島から避難し、「イギリス海軍の軍艦サッフォー(H. M. S. Sappho)が1878年、イースター島に到着した際に島に残っていた住人の数は150人であった。」と記している。その中でクークは1886年に受け取った島全土の人口調査の要約を記載しており、それによると先住民が155人、外国人が11人となっている[28]。
- ^ バルテルは、「その形状、大きさ、置かれていた状況から、これらはここで2度行われた埋葬の際に、奉納された文字板であるとかなりの高い確率で言うことができる。」と述べている[40]。
- ^ しかし、ロシアの研究者イゴール・ポズドニアコフ(Igor Pozdniakov)とコンスタンティン・ポズドニアコフ(Konstantin Pozdniakov)は2007年、テキストのパターンの数に限りがあり、繰り返しが多い点から、歴史や神話のような複雑な内容の記録であることはありえない、という考えを示した。
出典
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- ^ a b 図参照。その他、ロンゴロンゴの絵文字と似たペトログリフの例をここや、ここで見ることができる。
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