リスボン地震 (1755年) 概要

リスボン地震 (1755年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 06:38 UTC 版)

概要

Gutscherがサイエンスに投稿した論文での、

An active subduction zone off southern Iberia poses a long-term seismic risk and is a likely candidate for having produced the Great Lisbon earthquake in 1755.

という記述から、「イベリア半島南西沖の寄生マイクロプレートにおける弓状の沈み込み帯で発生した地震である」と考える説もある。

リスボンでは地震のあとに起きた津波と火災により、ほとんどの建物が廃墟と化した。震災によりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いは削がれることとなった。

また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における理神論崇高論の展開を強く促した。リスボン地震によって思想的に大きな変化を蒙った思想家には、後述のようにヴォルテールがいる(『カンディード』を参照)。

当時、ポルトガル王ジョゼ1世の下で宰相の地位にあったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)は、リスボンの再建を積極的に推進した。

地震当日

リスボン地震での津波の到達時間 (計算による推定値)

11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[6]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人とされる。生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到した(狭い土地で無計画に都市開発が行われたために建物が密集し、市街には広場がなく狭い路地が入り組んでいた)が、やがて海水が引いていき、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[7]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた約1万人の市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。

大地震後のリスボンの様子

ポルトガルのほかの町でもリスボンのような惨禍に見舞われた。国土の南半分、特にアルガルヴェ地方の被害は大きかった。南西端のサグレスでは30mの津波に襲われている。地震の揺れは遠くフィンランドからアフリカ北部まで感じられた。グリーンランド[8]カリブ海[9]にまで揺れがおよんだという記録もある。モロッコなど北アフリカの沿岸は高さ最大20mの津波に襲われ、イングランド南部やアイルランド西部にも3mの高さの津波が押し寄せて建物などを破壊した(ゴールウェイスパニッシュ・アーチには津波で破壊された跡が残っている)。さらに大西洋を越えたバルバドスマルティニークにも津波が到達した。

当時リスボンは27万5,000人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡した。モロッコでも津波などで1万人が死亡したとされるが、記録がはっきりしておらず、続く11月18日から19日に起こった一連の地震の被害も合わさっている可能性もある[10]

リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、教会の蝋燭などが火元の火災で焼失した。わずか6か月前にこけら落としを祝ったばかりの歌劇場も火災で焼け落ちた。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と津波で崩れ、7万巻の書物やティツィアーノルーベンスコレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も、王立文書館の建物とともに失われた。作曲家カルロス・セイシャスの作品の楽譜も、そのほとんどが失われた。リスボン大聖堂サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院などの大きな教会や修道院も破壊された。ロシオ広場には当時最大の公立病院だったレアル・デ・トードス・オス・サントス病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのまれた。ポルトガルの独立の英雄ヌーノ・アルバレス・ペレイラ英語版の墓所も破壊された。カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残している。

カルモ修道院の廃墟

津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがある。これは震災にともなう動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものである。

震災後

国王一家は、運の強いことに震災においてけがひとつしなかった。国王ジョゼ1世らは、当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席したあと、王女の願いを聞いて街から離れ、祭日を過ごそうとしていたのである。ただ地震のあと、ジョゼ1世は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には略奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える
大地震により倒壊した建築物
リスボンの広場に集まる人々

宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる[11]。彼は、後年ポルトガルに君臨したときと同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理するよう軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序、特に略奪が広がるのを防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された[12]。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。震災直後は物資不足が問題となったが、まもなくリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告されたため、彼らを支援するための物資がリスボンに集まり、復興物資を確保することができた。

震災からまもなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、いたるところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。今では「麗しのリスボン」といわれる[13]。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の先見性を示している)。

当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

この震災をきっかけに「失われた250年」の長期衰退の道が始まることになった[14]


  1. ^ リスボン大地震 - 白水社. https://www.hakusuisha.co.jp/book/b629994.html 
  2. ^ Between History and Periodicity: Printed and Hand-Written News in 18th-Century Portugal
  3. ^ 2011年3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)にほぼ匹敵。
  4. ^ アゾレス・ジブラルタル断層の一部と考えられている。震源というのは最初に地震が起こったところを指し、地震の規模から考えて動いた断層は数百km以上に及ぶ。
  5. ^ リスボン地震とその文明史的意義の考察 (公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構 研究調査本部
  6. ^ 樺山によれば「断続的に数十分」。数十分間隔で3回という説もある。
  7. ^ Viana-Baptista MA, Soares PM. Tsunami propagation along Tagus estuary(Lisbon, Portugal) preliminary results. Science of Tsunami Hazards 2006; 24(5):329 Online PDF. Accessed 2009-05-23. Archived 2009-05-27.
  8. ^ Brockhaus' Konversations-Lexikon. 14th ed., Leipzig, Berlin and Vienna 1894; Vol. 6, p. 248
  9. ^ Lyell, Charles. Principles of Geology. 1830. Vol. 1, chapter 25, p. 439 Online electronic edition. Accessed 2009-05-19. Archived 2009-05-21.
  10. ^ Blanc P.-L. Earthquakes and tsunami in November 1755 in Morocco: a different reading of contemporaneous documentary sources. Nat. Hazards Earth Syst. Sci. 2009; 9: 725–738. Online PDF. Accessed 2009-05-23. Archived 2009-05-27.
  11. ^ Kendrick. The Lisbon Earthquake. pp. 75  Kendrick writes that the remark is apocryphal and is attributed to other sources in anti-Pombal literature.
  12. ^ Gunn(2008), page 77.
  13. ^ 樺山。
  14. ^ 大地震から「失われた250年」をたどるポルトガル”. 日本経済新聞 (2012年3月13日). 2023年11月1日閲覧。
  15. ^ Benjamin, Walter. "The Lisbon Earthquake." In Selected Writings vol. 2. Belknap, 1999. ISBN 0-674-94586-7. 難解なことで知られるベンヤミンは1930年代に子供のためのラジオ番組を持った。1931年の放送ではリスボンの地震とヨーロッパ思想への衝撃を簡略に述べている。
  16. ^ Hamacher, Werner. "The Quaking of Presentation." In Premises: Essays on Philosophy and Literature from Kant to Celan, pp. 261–293. Stanford University Press, 1999. ISBN 0-8047-3620-0.
  17. ^ Shrady, The Last Day, pp.145-146





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